スズキのインド子会社であるマルチ・スズキ・インディアは、インド工場における完成車の鉄道輸送への大規模な転換を実現し、世界最大のボランタリー・カーボンクレジット認証機関Verraから「世界初のモーダルシフト輸送プロジェクト」として認証を取得しました。モーダルシフトとは、トラックなど環境負荷の大きい輸送手段から、鉄道や船舶など環境負荷が小さく大量輸送が可能な手段へ転換する取り組みのことです。この世界初の認証は、スズキがインド・グジャラート州の工場内に自己資本で敷設した専用鉄道引込線を活用した完成車輸送が、国際的に厳格な方法論で評価された結果として実現しました。
本記事では、モーダルシフトの基本的な仕組みと意義を解説したうえで、スズキのインド工場における鉄道輸送戦略の全容をお伝えします。世界初となったカーボンクレジット認証取得の背景、インドの国家的インフラ戦略との連動、そして今後の展望まで、自動車産業における持続可能な物流の最前線を詳しく見ていきます。

モーダルシフトとは何か:鉄道輸送への転換がもたらす環境的・社会的メリット
モーダルシフトとは、旅客や貨物の輸送手段を環境負荷の低い手段へ体系的に転換する取り組みを指します。自動車産業の完成車輸送においては、少数の車両しか積載できないトラックから、一度に数百台を運べる鉄道輸送へのシフトを意味します。この転換の根底には、輸送単位あたりのエネルギー消費量と温室効果ガス排出量を劇的に削減するという明確な合理性があります。
鉄道輸送の環境面での優位性
鉄道はトラックと比較して、同じ重量の貨物を同じ距離運ぶ際の燃料消費量を大幅に削減できます。温室効果ガス排出量も最大で75パーセント以上の削減が可能とされています。一度に数百台の完成車を少数の乗務員で安全に輸送できるため、長距離ドライバーの人材不足も根本から解消されます。幹線道路から大型トレーラーが減ることで交通渋滞の緩和や重大事故の減少にもつながります。
トラック輸送が抱える構造的な問題
従来のトラック輸送に依存した物流システムには、複数の構造的問題が存在します。内燃機関を動力とするトラックは化石燃料への依存度が高く、トンキロメートルあたりのCO2排出量が鉄道と比較して圧倒的に多い状況です。インドのような広大な国土を持つ国では、長距離輸送が深刻なドライバー不足と長時間労働を引き起こしてきました。インドは世界の交通事故死者数の約11パーセントを占めており、特に大型トラックが関与する死亡事故の割合が高い水準にあります。都市部への乗り入れ制限や過積載による交通違反件数も増加しており、サプライチェーンの断絶リスクは年々高まっていました。
モーダルシフトの課題と成功の条件
一方で、モーダルシフトには固有の課題も存在します。天候や自然災害によるダイヤの乱れや運行停止のリスクがあり、鉄道網は一度寸断されると復旧に時間を要します。また、鉄道インフラは固定されているため、工場から駅、駅から販売店までの「ラストワンマイル」ではトラックへの積み替えが避けられません。この積み替え作業はリードタイムの増加や車両損傷リスクを伴います。短距離・中距離の輸送ではかえって物流コストが上昇する場合もあります。
したがって、モーダルシフトを成功させるには二つの条件が不可欠です。一つは工場から直接鉄道に積み込める専用インフラの構築です。もう一つは長距離かつ大量の輸送需要を確保してスケールメリットを最大化することです。マルチ・スズキの取り組みが世界初として評価されたのは、この高いハードルを巨額の自己投資と国家政策との連動によって乗り越えた点にあります。
スズキのインド工場が推進する鉄道輸送戦略の軌跡
マルチ・スズキの鉄道輸送への取り組みは、十年以上の歴史を持つ長期的な戦略です。同社は2013年にインドの自動車メーカーとして初めて「AFTO(自動車貨物列車運行事業者)」ライセンスを取得しました。このライセンスにより、民間企業がインド国鉄のネットワーク上で専用自動車貨車を自ら設計・調達・保有し、運行することが可能となりました。マルチ・スズキはこの制度を最大限に活用し、鉄道インフラと車両技術への投資を継続してきました。
年間58万5,000台超の鉄道輸送を達成
2014年度の本格運用開始以降、マルチ・スズキの鉄道輸送台数は飛躍的に拡大しました。2025年(暦年)には過去最高となる年間58万5,000台以上の完成車を鉄道で輸送しています。これは同社のインド国内出荷台数全体の約26パーセントに相当します。2016年時点では約7万7,000台(全体の約5.1パーセント)でしたから、わずか10年足らずで輸送ボリュームは約7.5倍に拡大しました。構成比も約5倍に達しています。同社の竹内寿志マネージングディレクター兼CEOは、鉄道輸送比率を2030年度までに35パーセントへ引き上げる中期目標を掲げています。
以下の表は、マルチ・スズキの鉄道輸送実績の推移を示したものです。
| 年 | 鉄道輸送台数 | 国内出荷に占める比率 |
|---|---|---|
| 2016年 | 約7万7,000台 | 約5.1% |
| 2025年 | 58万5,000台以上 | 約26% |
| 2030年度(目標) | ― | 35% |
最新鋭の二層式貨車BCACBMが支える技術革新
この輸送量拡大を技術面から支えているのが、自動車輸送専用に設計された最新型貨車です。現在の主力は「BCACBM」と呼ばれる二層式覆い付き貨車で、50ミリメートル単位で高さを調整できる可動式内部デッキシステムを備えています。これにより、車高の高いSUVと小型ハッチバックを同じ列車編成内に効率的に混載することが可能になりました。
BCACBMは従来よりも小径の車輪(840ミリメートル)を採用して床面高さを下げています。さらに自走式スロープを内蔵し、積み降ろし作業の安全性と効率を大幅に向上させました。このBCACBMを27両連結した1編成で、一度に最大約300台の完成車を輸送できます。インド市場ではSUV人気が急速に拡大しており、多様な車種を柔軟に積載できるこの貨車の存在がモーダルシフト戦略の物理的な基盤となっています。
グジャラート工場とマネサール工場の専用鉄道引込線
マルチ・スズキのモーダルシフト戦略の核心は、生産拠点内に専用の鉄道引込線(インプラント・レールウェイ・サイディング)を建設した点にあります。工場から直接鉄道に完成車を積み込むことで、トラックによる拠点間輸送を排除したシームレスな物流網が実現しました。
世界初の認証を受けたグジャラート工場引込線
グジャラート州ハンサルプール工場内のインプラント引込線は、2023年3月の先行稼働開始以来、すでに60万台以上の車両を鉄道網に直接送り出してきました。2024年3月にはナレンドラ・モディ首相による正式な落成式も行われています。
この施設はPM Gati Shaktiの枠組みの下で推進されました。マルチ・スズキ、グジャラート州産業開発公社(GIDC)、グジャラート鉄道インフラ開発公社(GRIDE)による特別目的会社が事業主体です。総工費は97億6,000万ルピーに上り、工場内の線路敷設にかかる約10億5,000万ルピーはマルチ・スズキが全額自己負担しました。この引込線は年間5万回もの長距離トラック運行を削減し、3,500万リットルの化石燃料消費を抑制する環境インフラとして機能しています。この莫大な環境負荷低減の実績が、後のカーボンクレジット認証の直接的な根拠となりました。
インド最大規模を誇るマネサール工場引込線
グジャラートでの成功を受けて、マルチ・スズキは2025年6月にハリヤナ州マネサール工場で国内最大規模の引込線を本格稼働させました。投資総額は45億2,000万ルピーに達しています。
以下の表は、グジャラート工場とマネサール工場の引込線を比較したものです。
| 項目 | グジャラート工場 | マネサール工場 |
|---|---|---|
| 所在地 | グジャラート州ハンサルプール | ハリヤナ州マネサール |
| 稼働開始 | 2023年3月(先行稼働) | 2025年6月 |
| 投資額(自社負担分) | 約10億5,000万ルピー | 45億2,000万ルピー |
| 軌道総延長 | ― | 8.2キロメートル |
| 同時停車可能編成数 | ― | 4編成 |
| 年間出荷能力 | ― | 45万台 |
| 年間燃料削減量 | 3,500万リットル | 6,000万リットル(見込み) |
| 年間CO2削減量 | ― | 17万5,000トン(見込み) |
マネサール工場の引込線は243ヘクタールの敷地内のうち46エーカーを占めています。総延長8.2キロメートルの完全電化された軌道が敷設され、4本のレーキトラックと1本の機関車退避用エスケープトラックを備えます。高度な電子連動装置を搭載した2階建て駅舎や、乗務員・警備員のための専用通路も整備されています。ここから出荷された車両は国内17の物流ハブを経由して全国380都市へ配送されるほか、輸出向けとしてムンドラ港やピパバブ港へも直接運ばれています。
カシミール地方への史上初の鉄道直通輸送
2025年10月、マルチ・スズキはマネサール引込線からジャンムー・カシミール連邦直轄領のアナントナグ鉄道ターミナルへ向けて、自動車メーカーとして史上初となる鉄道による完成車の直通輸送を成功させました。このルートのハイライトは、「世界最高の鉄道アーチ橋」であるチェナブ川鉄橋を通過する点です。
これまでカシミール渓谷への自動車輸送は極めて困難でした。鉄道網が未整備のため、ジャンムーで車両を降ろした後にドライバーが1台ずつ急峻な山岳道路を走行するしかなかったのです。シュリーナガルとジャンムーを結ぶ約300キロメートルの主要国道は、冬季の降雪や土砂崩れで頻繁に長期間の通行止めとなっていました。850キロメートルを超える距離を鉄道で直接結ぶことで、天候に左右されない安定した配送スケジュールが確立されました。首都圏周辺の道路からのトラック排除、そして山岳地帯を運転するドライバーの安全確保にも大きく貢献しています。
世界初のVerra認証取得とカーボンクレジットの創出
マルチ・スズキのグジャラート工場における鉄道輸送は、世界最大の非営利ボランタリー・カーボンクレジット認証機関Verraから、VCS(Verified Carbon Standard)プログラムにおける「世界初のモーダルシフト輸送プロジェクト」として正式に登録・認証されました。VCSプログラムは世界で発行されるボランタリー・カーボンクレジットの過半数を占める最も信頼性の高いグローバルスタンダードです。
厳格な国際方法論AM0090の適用
排出削減量の定量化には、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)のクリーン開発メカニズム(CDM)で規定される厳格な方法論「AM0090」が採用されました。AM0090は「道路輸送から水運または鉄道輸送への貨物輸送のモーダルシフト」を対象とする方法論です。
AM0090の適用要件は非常に厳しいものです。まず、プロジェクトが実施されなかった場合のベースライン・シナリオにおいて、貨物がトラック等の道路交通で輸送されていたことを客観的データで証明しなければなりません。さらに、プロジェクト参画者が直接投資を行って新たな鉄道インフラを整備したこと、そして輸送される貨物が単一種類であることが絶対条件として求められます。
マルチ・スズキが生産する「完成車」は、この単一貨物という条件を満たしています。そして同社自身が工場内に専用引込線を建設した事実が、AM0090の投資要件をクリアしました。通常この方法論は石炭や鉱石などのバルク貨物を想定して開発された経緯があります。自動車メーカーの完成車物流スキームに適用された例は過去に存在せず、これが「世界初」として歴史に刻まれた理由です。
10年間で17万トンのCO2削減計画
この認証により、グジャラート工場プロジェクトは2023-24年度から2032-33年度までの10年間で約17万トンのCO2排出量を削減する計画として登録されました。独立した第三者機関による検証を経た後、Verraがこの17万トン相当のカーボンクレジット(VCU: Verified Carbon Unit)を発行します。
このカーボンクレジット創出は企業経営にとって二つの大きな意味を持っています。一つは、サプライチェーン全体のScope 3エミッション削減成果として、国際的に通用する環境価値の客観的証明となることです。もう一つは、ボランタリーカーボン市場でのVCU売却やグループ内での内部振替による経済的リターンの可能性です。巨額のインフラ投資の回収を物流コスト削減だけでなく、環境価値のマネタイズで補完するこのビジネスモデルは、サプライチェーンマネジメントに新たな方向性を示しています。
さらにこのプロジェクトは、炭素削減にとどまらず複数のSDGsへの貢献も実現しています。道路上から数万台規模の大型トレーラーを削減することで地域の大気汚染の軽減や交通事故の減少をもたらし、「目標3(すべての人に健康と福祉を)」に直接寄与します。過酷な長距離トラック輸送への依存から脱却し、安全な鉄道物流システムへ移行することは、「目標8(働きがいも経済成長も)」の具現化でもあります。
インド国家戦略PM Gati Shaktiが支えるモーダルシフトの基盤
マルチ・スズキのモーダルシフトを可能にした重要な背景として、インド政府の国家メガプロジェクト「PM Gati Shakti(国家マスタープラン)」があります。インドの物流コストはかつてGDP比で13パーセントから14パーセントと、先進国の一桁台に比べて非効率でした。この課題を解決するため、2021年10月にモディ首相が100兆ルピー規模の巨大インフラ投資計画を発表しました。
PM Gati Shaktiの最大の特徴は、省庁間の縦割りを打破し、鉄道・道路・港湾・空港・内陸水運を統合的なマルチモーダル輸送ネットワークとして再構築する点です。200以上のGISレイヤーを持つデジタルプラットフォーム上に、16省庁が管轄するインフラや経済特区のデータが一元化されています。この政策の効果により、インドの物流コストはGDP比で7.8パーセントから8.9パーセントの水準にまで低下しつつあると推計されています。
西部専用貨物回廊と輸出戦略の連動
PM Gati Shaktiの重要な構成要素として、総延長1,506キロメートルに及ぶ西部専用貨物回廊(Western DFC)の整備があります。北部ウッタル・プラデーシュ州からグジャラート州ムンドラ港やマハラシュトラ州ナバシェバ港など西海岸の主要港湾を電化複線で結ぶ大動脈です。マルチ・スズキはこのWestern DFCを活用し、内陸部の工場から輸出拠点のムンドラ港やピパバブ港へ完成車を高速・大量に輸送しています。ムンドラ港における自動車輸出台数は記録的な伸びを示しており、ラテンアメリカ、アフリカ、中東、ASEANへのグローバル輸出戦略を強固に支えています。
スズキ環境ビジョン2050とScope 3排出削減への挑戦
マルチ・スズキの環境施策は、親会社スズキ株式会社の包括的戦略「スズキ環境ビジョン2050」と完全に連動しています。このビジョンでは、2050年までに新車の製品ライフサイクル全体でのCO2排出量を2010年度比で90パーセント削減するという目標が掲げられています。製造や物流の事業活動から発生するCO2排出量についても、2016年度比で原単位80パーセント削減が目標です。中間マイルストーンとして、2030年までに原単位45パーセント削減も明記されています。
Scope 3削減における先駆的アプローチ
自動車産業において、自社工場の製造工程(Scope 1・Scope 2)の脱炭素化は再生可能エネルギー導入などで直接コントロールが可能です。しかし、サプライチェーンの上流・下流で発生するScope 3の排出量削減は、外部の物流事業者への依存度が高くコントロールが困難です。マルチ・スズキが自ら巨額の資本を投じて専用引込線を建設し、自社主導の鉄道網を構築した行動は、Scope 3の主要排出源を戦略的に削減可能な領域へ引き戻したことを意味しています。
インド市場では競合他社も鉄道輸送に注力しています。ヒョンデ・モーター・インディアは2024年に国内出荷台数の26パーセントにあたる約15万6,000台を鉄道で輸送し、約1万8,000トンのCO2排出を回避しました。しかし、マルチ・スズキの年間58万5,000台という圧倒的な規模と、生産ラインから直結する専用インフラの統合的アプローチは他社を大きく凌駕しています。この差が世界初のVerra認証取得という決定的な結果を生み出しました。
SMG吸収合併による組織最適化と今後の投資体制
2025年12月1日を効力発生日として、スズキの完全子会社であったスズキ・モーター・グジャラート(SMG)がマルチ・スズキへと完全に吸収合併されました。この統合により、グジャラート工場とマネサール工場という二大生産拠点が単一の企業体のもとに集約されました。鉄道引込線への追加投資やカーボンクレジットの申請・管理、インド鉄道省や州政府との連携が、より機動的に行える体制が整ったのです。
マルチ・スズキはこの合併に伴い、授権資本を1,500億ルピーから1,687億5,500万ルピーへと増額しました。スズキは2030年までにインドでの年間生産能力を400万台へ拡張する計画を進めており、鉄道輸送比率35パーセントの目標達成に向けた更なるモーダルシフト投資を推進する資本基盤が確保されています。
スズキのインド工場における鉄道輸送が示す持続可能な物流の未来
マルチ・スズキが達成した世界初のVerra認証は、一過性の環境対策ではありません。インド政府のPM Gati Shaktiというマクロ的インフラ構想と、スズキ環境ビジョン2050という企業戦略が、高度な物流技術と厳密なカーボンアカウンティング手法を介して結実した成果です。
2013年のAFTOライセンス取得に始まり、巨額の自己資本を投じたインプラント鉄道引込線の建設、最新鋭BCACBM貨車の投入、そしてチェナブ川鉄橋を越えたカシミール地方への新ルート開拓まで、マルチ・スズキは十年以上にわたりハードウェア・インフラを積み重ねてきました。その成果を「10年間で17万トンのカーボンクレジット創出」という客観的かつ経済的価値を持つ環境価値へと変換させたことが、この取り組みの本質です。竹内社長が「規模の経済、オペレーションの効率性、そして環境への責任がシームレスに両立し得る」と述べたように、環境負荷の低減とビジネスの拡大を同時に実現するモデルが確立されました。
Scope 3エミッションの削減という巨大な壁に直面するすべてのグローバル製造業にとって、マルチ・スズキの事例は実証済みの強力なケーススタディです。環境価値と経済価値を両立させるこのアプローチは、次世代の持続可能なモビリティ産業が向かうべき方向性を力強く示しています。

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