順位のない運動会について考える

生活

神奈川県茅ヶ崎市立香川小学校では、コロナ禍の影響で運動会の時間短縮を余儀なくされ、競技数を減らす必要があったことから、従来の運動会を見直し、徒競走や選抜リレーをなくし、得点制も廃止して“競い合わない”運動会を実施した。國分前校長は、従来の運動会のあり方に疑問を投げかけ、結果を相対的に評価するような教育は考え直す時期にきていると述べた。

私は、順位が競技をする上で重要な指標であることを感じます。ただし、単に順位を強調するだけではなく、競技者が自己記録を短縮できたり、順位が上がった場合は褒めたり、またはクラス全体の平均タイムを伸ばす取り組みを行うなどの方法があります。このようなアプローチは、競技において勝利を追求することが重視される中で、競技者たちのポジティブな気持ちを維持し、継続して練習することを促すものです。競技者たちは、勝敗にこだわりすぎず、負けても必ず次に頑張ることができるという考え方を持つことが大切だと思います。そして、競技はこれで終わりではなく、次の試合に向けてトレーニングを継続することが重要です。

私が子供の頃、運動会の徒競走やリレー以外には、活躍できる場がありませんでした。一番になれないことは、子供にとって非常に悲しいことで、やる気が起きません。

勉強ができる子供ばかりが、テストや成績表で褒められ、運動ができる子供たちの活躍の場を奪うことに意味があるのか疑問です。逆に、競争をせずにダンスのようなことばかり増えるのであれば、運動会自体が必要なくなってしまいます。

…と、運動会に全てを懸けていた元小学生の個人的な意見でした。自分の思い出は別にしても、勉強以外でも色々な競争に拘ることは大切だと思います。大人になったら競争社会なんだからです。勉強だけに熱中して、大人になって初めて挫折するのは怖いです。

自分自身の過去と比較し、自己超越を目標に学ぶことは価値があります。一方で、自分が他者の中でどのレベルにいるのかを知ることも時に必要です。 どちらが良いかということではなく、バランスの問題です。そして、どちらも重要です。他者との比較の中で自分自身を上回ることで、順位を上げることができます。同時に、自分自身を超えて他者よりも優れた存在になることもできます。これらは正反対のように聞こえますが、実際には同じことを言っています。

子供たちがどちらに興味を持つかによって、学習の入口を選ぶことが大切だと思います。また、学校においては、両方の分野が同等に重視されることが望ましいです。

漢字テストや計算テストのように、体育の評価も点数をつけて優劣をつけることが一般的です。しかし、運動になると、『苦手な子に配慮』という理由で、体育で活躍する子供たちから得意分野を取り上げることがあります。このような対応が流行り始めた時期は、親たちも皆、子供たちが平等に扱われることを望んでいたものです。しかし、このような対応は、良いことばかりではありません。例えば、得意な子が体育の授業で活躍することで、自信をつけることができる場合もあります。また、運動が苦手な子供たちが、体育の授業で苦手なことを克服したり、新しい友達を作ったりすることもあります。このようなことを考慮すると、体育の評価において、子供たちが自分自身を表現し、自信をつけることができる環境を作ることが重要であると言えます。

でも、最近はそれってやっぱりおかしくない?長所もあれば短所もある、それこそが多様性だし…って理解の方が増えてきているように思います。 もちろん、体育の中でも球技が得意な子、足の速い子、リズム感のあるダンスが上手い子、一輪車などバランスの優れた子、色んなタイプがいます。

結局のところ、学力テストも絵画や音楽コンクールも高校野球も、全て評価を廃止することになるのかもしれません。しかしながら、教育において評価が果たす役割は重要であると言えます。例えば、勉強では振るわないが、その分スポーツで輝ける場があることがその子の救いになり、自信をつけることもあります。このような機会を奪うことは、教育的意義があるとは思えません。また、順位付けを一律に廃止すると、その子の個性が失われる可能性もあるため、想像力が必要です。それにもかかわらず、順位には反映されなかったが、子どもが努力して取り組みスコアが上がったり、勝敗には関係ないが運営面では協力して頑張ったところも注目して褒めるような配慮も必要です。こうした態度が、子どもたちに自信とやる気を与えます。結局のところ、順位付けにだけ目を向けると、子どもの大事な側面が見えなくなる危険性があるため、教育者は個々の子どもたちの成長を促すため、教育的評価のあり方を見直し、より多角的で柔軟な評価方法を模索する必要があります。

順位をつけると、負けたくないという気持ちが生まれるため、競わせないようにすることは可哀想な子を守るためではあるが、同時に「負けたくない」という気持ちを原動力に努力できる子たちの成長機会を奪ってしまうことになると思う。 また、運動会や成績での順位付けをやめたところで、受験や就活では競わなければいけない現実がある。”競わせない教育”は負けた時の立ち直り方などの学習機会も奪うことになり、問題があるかもしれない。

「順位付け」と「タイムなどの記録」という2つの方法で評価するのではなく、両方を評価し、負けた子には以下のように声をかけましょう。「試合には負けたけど、自己ベストを超えたね。本当に頑張ったね」というように、ポジティブな言葉で激励しましょう。

順位付けに過剰に反応しすぎだと思います。人間としての優劣や自己肯定感とは無関係に、ゲームとして嬉しかったり悔しかったりする話として考えるべきです。

いろんな球技には勝ち負けがあるため盛り上がりがありますし、徒競走も個人競技のゲームとして、子どもの頃に体験してみるのもいいでしょう。

一方で、表現系の見せ物については、子どもたちが自主的に楽しく達成感を持っているなら問題ありませんが、親に見せることを目的にして、指示通りにできない子に厳しく接することもあります。また、先生の自己満足に陥っているような言葉掛けもあるようです。

子どもたちが楽しめるならばそれでいいですが、そうでない場合には見直す必要があるかもしれません。

もし香川小学校という井戸の中で一生暮らすなら、それで良いでしょう。 その場合、運動会、テスト、通知表などは必要ありません。

ただし、外の世界で努力して切磋琢磨している人々と出会うと、自分の実力の差に落胆することになるでしょう。そのため、鳥かごの中でぬるま湯生活を送ることをお勧めします。

自分は運動が得意で、徒競走では常に一番だったタイプですが、もし順位がつかなかったとしても残念だとは思いません。勉強でも運動でも、人と比べる必要はなく、最終的には自分自身との戦いだと思います。アスリートでも一流の選手ほど、そうした思考を持っていると思います。また、子どもたちにもこの考え方を教えることが良い取り組みだと思います。

この教育は北欧型の教育に近いと思われます。先日、ノルウェーからの視察に来た先生が、順位付けを見て、なぜこんな教育をしているのかと怒っていました。彼らは、大人になってもスポーツを楽しめなくなってしまうだろうと考えたそうです。

北欧型の教育は、幸福度が高く、安心して生活できる国で実践されています。このような教育を真似しても良いと思われます。子どもたちが楽しく通えるなら、不登校や子どもの自殺も減るでしょう。

私自身、子どもが高校生になった今でも、彼らに様々な習い事をさせたり、社会に出たら競争社会であると言って、余裕が無い親として後悔しています。一緒に楽しく生活できるだけで幸せなのに、勝ち負けやマウントを気にする必要はありません。

ベーシックインカムなどを導入し、次の世代の人々が、心に余裕のある生活を送れるようになることを望んでいます。優劣やマウントを気にする必要がない、幸せな生活を送ってほしいと思います。

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