資生堂が2025年12月期連結決算で406億円という巨額の赤字を計上したにもかかわらず、決算発表後の株価は急上昇しました。この一見矛盾した現象の理由は、今回の赤字の大部分が米国ブランド「ドランクエレファント」の減損処理という会計上の処理であり、現金の流出を伴わない「前向きな赤字」として市場が評価したためです。加えて、国内構造改革「未来シフト NIPPON」の実行や、本業のコア営業利益が計画を20%以上も上回ったことが、投資家の買い意欲を強く刺激しました。
この記事では、資生堂の減収と赤字400億円の内訳を詳しく分析し、なぜ巨額赤字にもかかわらず株価が急上昇したのか、その理由を市場心理のメカニズムから解説します。2026年12月期の業績見通しや今後のブランド戦略転換についても、決算の内容をもとに掘り下げていきます。

資生堂2025年12月期決算の全体像と減収の背景
資生堂の2025年12月期決算は、売上高が減収となる一方で本業の利益は計画を上回るという、二面性を持つ内容でした。2026年2月10日に発表されたこの決算では、売上高が9,700億円で着地し、実質ベースで前年比2%の減収となりました。トップラインが伸び悩んだ背景には、中国経済の減速と免税店ビジネス(トラベルリテール)における在庫調整の影響がありました。化粧品業界全体が「中国頼みの成長モデルの終焉」という構造的な課題に直面しており、資生堂の数字にもその影響が色濃く表れています。
しかし、投資家が最も注目したのは売上高ではなくコア営業利益の推移でした。コア営業利益とは本業の儲けを示す指標であり、一時的な特殊要因を除いた事業の実力を測る重要な数字です。資生堂は期初にこの目標を365億円と設定していましたが、蓋を開けてみれば実績値は445億円に達し、目標を20%以上も上回って達成しました。営業利益率は4.6%を確保しており、決して高い水準とは言えないものの、厳しい市場環境下でもコストコントロールや販管費の抑制が機能し、利益を絞り出す基礎体力が維持されていることを示しました。売上が伸びない中でも利益を出せた背景には、構造改革の効果が一部先行して表れ始めていたことや、マーケティング投資の効率化が進んでいたことが挙げられます。
赤字406億円の正体とは?減損損失という会計処理の意味
本業で445億円もの利益を確保しながら、なぜ最終的に406億円の赤字に転落したのでしょうか。その最大の原因は、約468億円にも及ぶ減損損失の計上です。この大部分は2019年に買収した米国スキンケアブランド「ドランクエレファント」に関連するものでした。
減損損失とは、過去に投資した資産が当初見込んでいたほどの収益を生み出さないと判断された場合に、その資産価値を帳簿上で切り下げる処理を指します。今回のケースでは、買収したブランドの価値やのれん代が実態に見合わなくなったため、その差額を一括して費用計上しました。ここで理解すべき重要なポイントは、この468億円が「今期に現金が流出した」わけではないという点です。過去に支払った買収金額の一部を「失敗」として認め、帳簿上の数字を減らしたに過ぎません。企業が現金を失って経営が行き詰まるようなキャッシュアウトを伴う赤字とは、本質的に異なる性質のものです。
むしろ、将来にわたって少しずつ費用計上するはずだった「負の遺産」を今期に一括処理したことで、翌期以降の会計上の負担が軽くなるというメリットがあります。2024年12月期の108億円の赤字から約4倍に拡大した数字は衝撃的ですが、市場のプロフェッショナルたちはこの赤字を「将来の回復に向けた必要な外科手術」として分類しました。
ドランクエレファント買収の経緯と「セフォラ・キッズ」の衝撃
今回の決算で最大のトピックとなったドランクエレファントの減損処理は、なぜ起きたのでしょうか。かつて「クリーンビューティの革命児」と称されたブランドが巨額の損失を生むに至った経緯には、SNS時代のブランド構築の難しさと予期せぬ消費者層の変化がありました。
約900億円で買収した戦略的ブランド
2019年当時、資生堂はグローバル化を加速させるために欧米市場でのプレゼンス拡大を急務としていました。その切り札として選ばれたのが、米国発の急成長ブランド「ドランクエレファント」です。創業者が掲げた「成分引き算主義」、すなわち肌に刺激を与える可能性のある成分を排除するというコンセプトや、カラフルで写真映えするパッケージは、ミレニアル世代やZ世代の心を掴んでいました。資生堂は約900億円規模という巨額を投じて同社を買収しました。この価格は売上高倍率で見ても極めて割高でしたが、D2C(Direct to Consumer)モデルの成功例としてその成長ポテンシャルが高く評価されていたのです。資生堂はこの買収により、弱点であった若年層へのリーチとデジタルマーケティングのノウハウを一挙に獲得することを目指しました。
ブランドイメージを崩壊させた子供たちの殺到
しかし、買収から数年が経過し、ブランドは予期せぬ荒波に揉まれることになりました。その象徴的な出来事が、2024年から2025年にかけて欧米で社会問題化した「セフォラ・キッズ」現象です。TikTokなどのショート動画プラットフォームで、10歳前後のアルファ世代の子供たちが高級化粧品店「セフォラ」に殺到し、ドランクエレファントの製品を買い漁る動画が爆発的に流行しました。
一見すると新たな顧客層の開拓に思えるこの現象は、実際にはブランドにとって致命的なダメージとなりました。ドランクエレファントの主力製品にはレチノールや酸といった強力なエイジングケア成分が含まれており、大人の肌には有効ですが子供の繊細な肌には刺激が強すぎます。肌トラブルが多発した結果、「子供が使うべきではない危険な製品」というネガティブなイメージが広がり、安全性への信頼が揺らぎました。
さらに深刻だったのは、既存のコアファンであった大人の女性たちの離反です。「大人のための洗練されたクリーンビューティ」であったはずのブランドが、店舗では子供たちに売り場を占拠され、SNSでは「おもちゃ」のように扱われる状況に、ミレニアル世代やX世代の顧客は嫌気が差し、静かにブランドから離れていきました。
インフルエンサー依存の限界と売上65%減の現実
ドランクエレファントの失速は、SNSアルゴリズムの変化にも翻弄されました。同ブランドの成長は創業者のカリスマ性やインフルエンサーによる拡散に過度に依存しており、資生堂が本来得意とする研究開発に基づく長期的なブランド育成とは異なる、瞬間風速的な人気に支えられた構造でした。SNSのトレンドは移ろいやすく、アルゴリズムが変わればブランドの露出は一気に減少します。
2025年第1四半期には売上が前年同期比で65%も減少するという衝撃的な落ち込みを記録し、買収当初に描いていた右肩上がりの成長シナリオは完全に崩壊しました。今回の468億円の減損は、資生堂経営陣が「ドランクエレファントはもはやかつてのような成長は見込めない」という現実を直視し、買収価格と現在価値のギャップを埋める作業を断行した結果です。投資家にとって最も恐ろしいのは「見えない損失」であり、「いつ減損するのか」という長年の疑念が今回の処理によってきれいに払拭されました。
国内構造改革「未来シフト NIPPON」の断行と早期退職の成果
海外事業の減損処理と並んで、市場が高く評価したもう一つのポイントが、国内事業における聖域なき構造改革の実行です。資生堂にとって日本事業は創業の地であり精神的な支柱ですが、長年にわたり高コスト体質と収益性の低さという課題を抱えてきました。2025年は、その日本事業にメスを入れる歴史的な転換点となりました。
想定を超える257人が早期退職に応募
資生堂は国内事業の収益改善を目指し、「未来シフト NIPPON」と名付けた構造改革プランの一環として早期退職支援プログラムを実施しました。一定の年齢以上の社員を対象に、割増退職金を支払う代わりに早期のリタイアを促すものです。当初は約200人の応募を想定していましたが、結果として257人がこのプログラムに応募し、想定を大きく上回りました。日本の伝統的な大企業において人員削減は「社員を家族とみなす」経営哲学に反するとしてタブー視されがちでしたが、想定を超える応募があったことは、社員自身も会社の変革の必要性を認識していたことを示唆しています。
固定費削減がもたらす「筋肉質な経営体質」への転換
このプログラムの実施により、2025年第4四半期には約30億円の特別加算金等の費用が計上されました。これは一時的な赤字要因ですが、中長期的に見れば極めてポジティブな要素です。257名分の人件費が翌期以降に恒久的に削減されることで、年間数十億円規模のコスト削減効果が見込まれます。損益分岐点が下がることにより、売上が爆発的に伸びなくても利益が出やすい「筋肉質な体質」へと生まれ変わることが期待されます。
さらに重要だったのは、藤原憲太郎社長を中心とする経営陣の「覚悟」が市場に伝わった点です。過去のしがらみを断ち切り、痛みを伴う改革を完遂する能力があることが、具体的なアクションによって証明されました。投資家はスローガンではなく実行力を求めており、今回の早期退職の実施と完了はその具体的な回答として高く評価されました。「未来シフト NIPPON」では人員削減だけでなく、マーケティング費用の見直しや不採算ブランド・商品の整理も進められており、これらの施策が複合的に機能することで、日本事業の利益率改善に向けた道筋が明確になりました。
資生堂の株価が急上昇した3つの理由と市場心理のメカニズム
赤字400億円超という数字のインパクトにもかかわらず、資生堂の株価はなぜ急上昇したのでしょうか。その背景には、金融市場特有の3つのメカニズムが複合的に作用しました。
キッチン・シンキングによる悪材料出尽くし
株価急上昇の第一の理由は、「キッチン・シンキング」と呼ばれる経営手法への市場の評価です。キッチン・シンキングとは、台所の流しにある汚れた皿をすべて一気に片付けるように、企業が悪い情報を一度の決算ですべて出し切り、将来への懸念を一掃する手法を指します。今回の資生堂はまさにこの手法を教科書通りに実行しました。ドランクエレファントの減損、早期退職の費用計上、過去最悪の赤字――これらをすべて2025年12月期という一つの期に集約したのです。
投資家が最も嫌うのは不透明感です。損失の額がどれほど大きくても、それが確定し計上されれば、もはやリスクではなく「過去の事実」になります。「これ以上、隠れている悪いニュースはないだろう」という安心感が広がったことで、市場の視線は瞬時に「2025年の赤字」から「2026年の回復」へと切り替わりました。これが市場用語で「アク抜け」と呼ばれる現象です。
空売りの買い戻し(ショートカバー)が上昇を加速
第二の理由は、テクニカルな需給要因です。決算発表前、資生堂の株価は長期的な下落トレンドにあり、多くのヘッジファンドや投機筋が空売りを仕掛けていました。空売りとは株価の下落に賭けて株を借りて売る取引であり、株価が上昇すると損失が発生します。
決算が「悪材料出尽くし」と解釈され、予想に反して株価が上昇を始めると、空売りをしていた投資家たちは損失拡大を防ぐために慌てて株を買い戻す必要に迫られます。このショートカバーが構造改革を評価する実需の買いと重なることで、株価の上昇圧力は倍加しました。赤字額が400億円というインパクトのある数字だったことが、逆に「もう売り材料は出尽くした」という心理を強め、ショートカバーの連鎖を誘発したと考えられます。
バリュエーション訂正とリスクプレミアムの低下
第三の理由は、資生堂の株価が歴史的な安値圏にあったことによるバリュエーションの訂正です。かつて8,000円を超えていた株価は3,000円台前半まで低迷しており、市場は中国リスクやブランド毀損のリスクを過剰に織り込んでいた状態でした。
今回の決算で構造改革の進捗と本業の利益維持が確認されたことで、投資家が要求するリスクプレミアム(リスクに対する上乗せ金利のようなもの)が低下しました。「最悪期は脱した」との認識が広がり、極端に割安になっていた株価評価が正常な水準へと修正されるリプライシングの動きが起きたのです。
2026年12月期の業績見通しとV字回復の根拠
市場の関心はすでに2026年以降に移っています。資生堂が発表した2026年12月期の業績見通しは、V字回復を予感させる野心的な内容でした。
売上高は9,900億円と前期比で実質3%の微増にとどまる計画であり、無理な売上拡大は追わず質を重視する姿勢がうかがえます。一方で、コア営業利益は690億円を見込んでおり、前期比55%増という大幅な伸びを計画しています。利益率は4.6%から7.0%へと改善するシナリオです。
| 項目 | 2025年12月期(実績) | 2026年12月期(計画) | 増減率 |
|---|---|---|---|
| 売上高 | 9,700億円 | 9,900億円 | +2%(実質+3%) |
| コア営業利益 | 445億円 | 690億円 | +55% |
| 営業利益率 | 4.6% | 7.0% | +2.4pt |
| EBITDA | ― | 1,190億円 | +25%(前期比) |
この「売上微増でも利益は1.5倍」という計画の根拠は、構造改革による固定費削減と減損による償却費負担の減少にあります。売上が増えなくてもコストが減れば利益は増えるというシンプルな構造が成立する体制が整ったことが、投資家の期待を支えています。EBITDAも1,190億円と前期比25%増を見込んでおり、キャッシュ創出能力の回復も期待されています。
資生堂が目指すサイエンス主導のブランド戦略への転換
ドランクエレファントでの失敗を教訓に、資生堂は原点である「サイエンスに基づくスキンビューティ」への回帰を鮮明にしています。SNSの流行に左右される瞬間風速的なブランドではなく、100年以上の研究開発に裏打ちされた機能性重視のブランドへの投資を集中させる戦略です。
具体的には「SHISEIDO」や高級ブランド「クレ・ド・ポー ボーテ」といった、確固たる技術基盤を持つブランド群への注力です。これらのブランドは一過性のブームに流されにくく、中国やアジアの富裕層からも依然として高い信頼を得ています。マーケティング主導の「映え」から技術主導の「効能」へというこの戦略転換は、地味ではありますが持続可能な成長のためには不可欠な方向修正として市場に評価されています。ドランクエレファントの事例は、インフルエンサー依存型のブランド成長がいかに脆いかを示す教訓となりました。資生堂が長年培ってきた研究開発力こそが、長期的な競争優位性の源泉であるという認識が、経営陣と投資家の間で共有されています。
中国市場のリスクと資生堂に残された今後の課題
資生堂の回復シナリオには楽観的な見通しがある一方で、依然として注意すべきリスクも存在します。その最大の不確実性が中国市場の動向です。
ALPS処理水放出に伴う不買運動の影響や、中国現地ブランド(C-Beauty)の台頭による競争激化は、長期的なトレンドとして続いています。中国市場における地政学的緊張の影響も継続しており、手放しで楽観できる状況にはありません。
ただし、今回の決算で注目すべきは、資生堂が中国市場でのシェアを「拡大した」と発表している点です。市場全体が縮小する中でシェアを伸ばしたことは、トップブランドとしての相対的な強さを発揮した結果と解釈できます。資生堂は中国市場に対して過度な成長期待を持たず、収益性を重視した運営にシフトしています。無理な安売り競争に参加せず、ブランド価値を守りながら利益を確保するこの方針が、2026年の回復シナリオの前提となっています。
株価はピーク時の8,000円超と比較すると依然として低水準にあり、完全復活には中国市場の安定化やサイエンス主導の新製品のヒットなど、さらなる成果が求められます。しかし、構造改革によって出血を止める止血帯は正しく巻かれ、回復に向けた手術は成功したというのが市場の総合的な評価です。資生堂の2025年12月期決算は「終わりの始まり」ではなく「再生の起点」であり、今回の事例は変化の激しい現代市場におけるブランド管理の難しさと、伝統的日本企業がグローバル競争の中で生き残るために必要な改革の姿を映し出しています。

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