夫婦同姓の原則を維持しながら旧姓使用に法的効力を与える「旧姓使用法制化」とは、結婚後も婚姻前の姓を契約や公的手続きで使用できるようにする制度改革です。2025年、高市早苗首相率いる自民党と日本維新の会の連立政権合意において、選択的夫婦別姓を導入せず、代わりに旧姓使用を法制化する「第三の道」が国策として打ち出されました。この政策には、キャリアの継続性や伝統的家族観の維持といったメリットがある一方、国際的な通用性の欠如やシステム改修コストの増大、女性への負担偏重といったデメリットも指摘されています。この記事では、旧姓使用法制化の具体的な内容から、推進派・反対派それぞれの主張、さらには海外事例との比較まで、多角的な視点から詳しく解説していきます。

旧姓使用法制化とは何か
旧姓使用の法制化とは、単に職場で旧姓を名乗れるようにするという話ではありません。現在、住民票やマイナンバーカード、パスポート等では旧姓の「併記」が認められていますが、これはあくまで戸籍名の補足情報としての位置づけに過ぎません。今回の法案が目指しているのは、旧姓に「法的効力」を持たせることです。具体的には、契約書への署名、銀行口座の開設、不動産登記、さらには海外での身分証明において、戸籍名と同等の効力を旧姓にも認めようというものです。
高市首相の私案や日本維新の会の提案を軸に検討されている内容では、旧姓を単なる「あだ名」や「通称」ではなく、法令上、氏名に代えて使用できる「戸籍外の氏」として再定義することが想定されています。この制度設計の狙いは、「戸籍上の氏は一つ」という明治以来の夫婦同姓の原則を守りながら、「実社会では旧姓で活動できる」という実利を提供することにあります。選択的夫婦別姓を求める世論や経済界からの圧力に対して、伝統的な家族観を維持しつつ現実的な解決策を示すという政治的な意図が込められています。
高市私案と維新案の融合による法制化の枠組み
高市早苗氏は以前より選択的夫婦別姓に強く反対し、「旧姓の通称使用を拡大すれば不便は解消する」という立場を一貫して取ってきました。今回の法制化の軸となっているのは、この「高市私案」と日本維新の会が主張してきた「旧姓保持法案」の考え方を融合させたものです。
この融合案の核心は、民法750条(夫婦同氏の原則)には一切手を付けないという点にあります。法律婚をする以上、夫婦のどちらかが改姓し、戸籍上の氏は統一されます。現状では96%のケースで女性が改姓しています。その上で、新たに制定される特別法あるいは関連法の改正により、旧姓を「婚姻前の氏」として定義し、その使用に法的根拠を与えるという仕組みです。日本維新の会の案では、戸籍上の氏を維持しつつ、旧姓を通称として使用することを届け出た者について、法令上氏名を記載すべき場面において、氏名に代えてその婚姻前の氏と名を記載できるようにする措置が含まれています。これにより、契約書の署名や公的申請において戸籍名ではなく旧姓を使用しても法的有効性が担保されることになります。
政府はこの連立政権合意に基づき、2026年の通常国会に向けて法案提出の準備を進めています。
併記から単独使用への転換がもたらす課題
現在の運用では、住民票やパスポートに旧姓を記載する場合、「氏名(旧姓)」といった括弧書きの併記が原則となっています。しかし、高市内閣や維新案が目指す「法的効力」が旧姓の「単独使用」まで及ぶのかが最大の論点です。もし旧姓のみでの法的行為を認めるならば、それは事実上の「二重氏名制度」となります。
立憲民主党などの野党は、これを「戸籍姓と旧姓のダブルネーム運用を法制化し、どちらにも法的効力を持たせるもの」として、個人の特定や取引の安全を害すると批判しています。例えば、ある人物が戸籍名で借金をし、旧姓で不動産を所有していた場合、債権回収の場面で別人格のように扱われるリスクが生じる可能性があります。政府側は「戸籍はあくまで家族単位で編製し、対外的な活動には旧姓を使えるようにする」ことで家族の絆と個人のキャリアを両立できると主張していますが、法務省民事局等の見解では、現行の戸籍制度や民事手続きの根幹に関わる問題であり、単なる通称の拡大解釈では処理しきれない法的矛盾が生じることが指摘されています。
旧姓使用法制化のメリット
キャリアの継続性と職業上のアイデンティティを守れる
旧姓使用法制化の最大のメリットとして挙げられるのが、結婚による改姓でキャリアが分断されることを防げる点です。研究者、医師、弁護士、会社経営者など、名前自体が信用やブランドとなっている職業において、旧姓を法的に使い続けられることは職業生活上の不利益を解消する有効な手段となり得ます。
現状でも多くの企業で旧姓使用は認められていますが、法的根拠がないため、公的な資格証明や特許登録、登記簿上の役員名などで戸籍名を使用せざるを得ない場面が多々あります。法制化されれば、企業内での通称使用が「会社の恩情」ではなく「法的権利」となり、システム対応などを企業に義務付ける根拠となります。これにより、女性が結婚後も同じ名前で働き続ける環境が法的に保障されることになります。
伝統的な家族観と戸籍制度を維持できる
高市首相や保守派の議員にとって最も譲れない一線が「戸籍制度の堅持」です。戸籍による「同一氏」こそが日本の家族の絆の象徴であり、これを崩す選択的夫婦別姓は家族の一体感を損ない、子供の福祉に悪影響を与えるとして強く反対しています。旧姓使用の法制化は、戸籍制度(家族の一体感)を守りながら個人の社会活動における自由を拡大する「現実的な解決策」として位置づけられています。
推進派の論理では、戸籍は「家族の記録(内なる絆)」、旧姓は「社会活動の名称(外向きの顔)」と明確に役割を分けることで、伝統的な家族観と現代的な個人のニーズを調和させることができるとされています。高市氏は自身の演説において「日本列島を強く豊かに」するためには、日本独自の伝統を守りつつ改革を進める姿勢が必要だと訴えています。
結婚時の名義変更手続きの負担が軽減される
法制化により、銀行口座やクレジットカード、携帯電話の契約などを旧姓のまま継続できるようになれば、結婚時の名義変更手続きから解放されるという主張もあります。政府はマイナンバーカード等と連携させることでシームレスに旧姓を使い続けられる社会を目指すとしています。多忙な共働き世代にとって、婚姻時の事務的負担を減らす実利的なメリットとしてアピールされています。
旧姓使用法制化のデメリット
不動産登記における法的矛盾と2026年問題
最も深刻な法的対立が予想されるのが不動産登記の領域です。2024年4月より不動産登記において旧姓の併記が可能になりましたが、これはあくまで「括弧書き」であり、法的な所有者名は戸籍名です。しかし2026年4月からは、改正不動産登記法により「住所・氏名変更登記の義務化」が施行されます。
ここで義務と権利の衝突という問題が生じます。改正法では氏名に変更があった場合、2年以内に変更登記をしなければ過料(罰金)の対象となります。これは所有者不明土地問題を解消するための措置です。しかし旧姓使用法制化が実現すれば、「旧姓を使い続ける権利」と「戸籍名に変更する義務」が正面から衝突することになります。
取引の安全の面でも問題があります。不動産取引において登記名義人が「旧姓」で印鑑証明書が「戸籍名」である場合、司法書士や銀行は本人確認に極めて慎重にならざるを得ません。高市首相は総裁選時に「不動産登記も(旧姓で)できるようになった」と発言しましたが、専門家からは「併記と単独登記は全く別物であり、既婚者であることを晒すデメリットや将来的な相続時の混乱が解決されていない」との反論が出ています。
さらに実務の混乱も懸念されています。登記官は住基ネットから情報を取得して職権で氏名変更登記を行う権限を持ちますが、本人が「旧姓使用」を宣言している場合、勝手に戸籍名に変更して良いのかという行政法上の問題も浮上しています。
金融・銀行業界における本人確認の限界
銀行業界はこの法制化に最も警戒感を強めています。マネーロンダリング対策やテロ資金供与対策の国際基準が厳格化する中、本人確認(KYC)の精度向上が求められているからです。
二重管理のリスクとして、顧客が「戸籍名」と「旧姓」を使い分けて複数の口座を開設した場合、銀行側はそれを同一人物として紐付けるシステム(名寄せ)を構築しなければなりません。これには莫大なシステム投資が必要です。もし紐付けができなければ、犯罪収益の移転防止法に抵触するリスクや、ペイオフ(預金保険)の上限管理(一名義人あたり1000万円)に穴が開く恐れがあります。
現場の負担も深刻です。全国銀行協会などは「婚姻により氏名が変更になった場合でも届出は不要であるというような誤解が生じる」として懸念を表明しています。窓口業務において旧姓使用を希望する顧客に対し、戸籍謄本などの疎明資料を毎回求めるのか、それとも法制化された「旧姓」を無条件で受け入れるのか、その運用基準の策定は困難を極めます。
商業登記と企業ガバナンスへの影響
企業活動においても旧姓使用の法制化は複雑な問題を引き起こします。現在、会社法上の役員登記では旧姓の併記が認められていますが、旧姓のみの登記は認められていません。
代表権の所在に関しては、代表取締役が契約書に署名する際、登記されている代表者印(実印)を使用します。もし旧姓での印鑑登録と単独登記を認めるならば、企業は「戸籍名の実印」と「旧姓の実印」の二重管理を迫られる可能性があります。
株主・投資家への開示の問題もあります。上場企業の役員情報において旧姓のみが開示された場合、投資家がその人物の過去の経歴やコンプライアンス上の問題を調査する際に、戸籍名での検索ができず調査漏れが発生するリスクがあります。これはコーポレート・ガバナンスの観点から透明性を後退させる懸念があります。
税務・社会保険の不整合も問題です。企業の給与システムにおいて源泉徴収票や社会保険の手続きは戸籍名(マイナンバー紐付け)で行われますが、社内の呼称や銀行振込が旧姓で行われる場合、人事部門はその突合処理に追われます。中小企業にとってこの事務負担増は無視できない経営課題となります。
海外活動における通用性の欠如
最も致命的な欠陥は、日本の国内法でいくら「旧姓は正式な氏名である」と定めても国際社会では通用しないという点です。
パスポートのICチップ問題として、ICAO(国際民間航空機関)の基準では、パスポートの最も重要な本人確認情報であるMRZ(機械読取領域)やICチップには戸籍上の氏名(本名)のみが記録されます。旧姓はあくまで「追記」や「別名」として券面に記載されるだけでデジタルデータとしては存在しません。
入国審査でのトラブルも報告されています。日本人が旧姓で航空券を予約しパスポートのICチップが戸籍名である場合、自動化ゲートを通過できないだけでなく、有人カウンターでも氏名不一致で搭乗を拒否されるリスクがあります。また、旧姓併記のパスポートを見た各国の入国管理官から「あなたの本当の名前はどっちだ?」と問いただされ別室で尋問を受けるケースや、偽造パスポートの疑いをかけられる事例も報告されています。
経団連の調査では、女性役員の88%が海外出張などで不都合を感じているとし、旧姓の通称使用だけではグローバルビジネスにおける限界があると指摘しています。「通称使用の法制化」は問題を先送りするだけで根本解決にならないとの立場を明確にしています。
行政コストとシステム改修の膨大な負担
この法制化に伴う行政コストは甚大です。橋本聖子元男女共同参画担当大臣の答弁によれば、過去に住民票・マイナンバーへの旧姓併記システム改修費だけで国庫から少なくとも175億7千万円が投じられています。今回の法制化は単なる「併記」ではなく、旧姓を検索キーとしてあらゆる行政・民間システムが稼働することを求めるものであり、その改修範囲は地方自治体、税務署、法務局、警察庁、そして全ての民間金融機関に及びます。
特にマイナンバーカードのICチップや住基ネットの改修は必須となり、これにかかる費用は数百億円から数千億円規模に膨らむ可能性があります。立憲民主党や共産党は、通称使用拡大のためにこれだけの税金を投入する合理的理由が欠如していると批判しており、選択的夫婦別姓制度(戸籍法改正のみで済みシステム改修は限定的)の方が遥かに低コストであると主張しています。
女性への負担偏重と人権問題
現状、改姓しているのは95%以上が女性です。「旧姓を使えるようにする」ための手続き、証明書の取得、ダブルネームの管理、海外での説明責任、これら全てのコストと労力は改姓した側(女性)にのみのしかかります。
日本弁護士連合会(日弁連)や国連の女性差別撤廃委員会は、氏名の変更を強制する現在の民法750条そのものが人権侵害であり差別的であると指摘しています。旧姓使用の法制化はこの「強制改姓」という根本問題を温存し、差別を固定化させる弥縫策に過ぎないと批判されています。
海外事例との比較から見る日本の特異性
推進派はしばしば「海外でも旧姓使用は認められている」と主張しますが、その法的な内実は日本の提案とは根本的に異なります。
フランスの制度との違い
フランスの制度は日本の高市案とは真逆の発想に基づいています。フランスでは生まれた時の氏(出生氏)が一生涯変わらない「唯一の法的な氏」です。結婚によって法的な氏名が変更されることはありません。結婚したカップルは配偶者の姓を「通称」として使用する権利を得ます。つまりフランスでは「自分本来の姓が法的な氏」であり、「配偶者の姓が通称(オプション)」なのです。したがって離婚しても法的な氏は変わらず、アイデンティティの喪失やキャリアの分断といった問題は生じません。
日本の高市案との決定的な違いは、日本では「結婚で法的な氏を強制的に変えさせ(改姓義務)」、その上で「元の名前を通称として使わせる(旧姓使用権)」という構造である点です。フランスのように「元の名前が法的な氏として残る」わけではないため、根本的な構造が異なり、個人の尊厳を守るという観点では大きな隔たりがあります。
韓国の夫婦別姓制度
韓国ではかつての戸主制度が2005年に廃止され、2008年から「家族関係登録制度」が導入されました。これにより夫婦は原則として別姓です。結婚によって氏名が変わることがないため、キャリアの分断や名義変更の手続きコストは一切発生しません。家族の一体感は氏名の一致ではなく、家族関係登録簿という詳細な身分登録データによって法的に強固に紐付けられることで維持されています。
韓国や中国など近隣諸国でも夫婦別姓は一般的であり、「同姓でなければ家族の絆が壊れる」という日本の保守派の主張は、儒教文化圏の中でも特異な家族観となりつつあります。韓国の事例は、氏名が異なっても家族としての法的保護や社会的紐帯は十分に機能することを示しています。
各界の反応と今後の見通し
経団連は選択的夫婦別姓の早期導入を求める
日本経済団体連合会(経団連)は「選択的夫婦別姓制度の早期導入」を強く求めています。十倉会長やダイバーシティ推進委員長の継原氏は、旧姓の通称使用拡大に対して「それでは解決しない」と明言しています。彼らの主張は「ビジネスにおける効率性」と「グローバル基準」です。旧姓使用のためのシステム投資や海外での説明コストは企業競争力を削ぐ無駄なコストと見なされています。特に女性役員の登用を進める中で、旧姓使用の限界による海外業務の支障は経営上のリスク要因として認識されています。高市内閣が推し進める「旧姓法制化」は経済界のニーズに対する回答になっておらず、むしろ失望を招いています。
野党・法曹界は対決姿勢を明確に
立憲民主党、共産党、社民党などの野党は選択的夫婦別姓法案を国会に提出しており、高市案を「選択的夫婦別姓を阻止するためのダミー法案」として激しく批判しています。立憲民主党の案では戸籍法を改正し、婚姻時に夫婦が同氏か別氏かを選択できるようにし、別氏を選択した場合は子の氏を婚姻時に定めるとしています。日弁連もまた夫婦同姓の強制は憲法違反であるとの立場から、旧姓使用の法制化に反対し、民法改正による選択的夫婦別姓の導入を求める会長声明を繰り返し出しています。2025年秋の臨時国会や2026年の通常国会ではこの問題を巡る与野党の激しい論戦が予想されます。
銀行・行政の現場は困惑
銀行業界や自治体の窓口では表立って政府批判は行わないものの、法制化に伴う実務の混乱を懸念する声が根強くあります。特に旧姓と戸籍名の使い分けによる本人確認の複雑化、なりすましリスクの増大、そしてシステム改修の負担は現場に重くのしかかります。「国が勝手に決めてコストと責任は現場に押し付けるのか」という不満は、制度の円滑な運用を阻害する要因となりかねません。
まとめ
高市内閣と日本維新の会が進める「旧姓使用の法制化」は、夫婦同姓という伝統的価値観を維持しつつ女性活躍という社会的要請に応えようとする「折衷案」です。しかし本記事で見てきたように、この制度には看過できない課題が存在します。
第一に、国際的通用性の欠如です。日本国内法で定めてもパスポートのICチップや海外当局のデータベースには反映されず、グローバル社会での活動における障壁は解消されません。第二に、社会的コストの増大です。二つの法的な名前を管理するためのシステム改修や事務負担は官民双方に巨額のコストを強います。第三に、不平等の固定化です。改姓に伴うあらゆる負担とリスクを依然として女性側にのみ負わせる構造は変わりません。第四に、法的整合性の危うさです。厳格な本人確認を求める現代社会の流れと、あやふやな通称使用の拡大は逆行しており、法的な安定性を損なう恐れがあります。
「社会生活のあらゆる場面で法的効力を与える」という高市首相の理想は、現実の社会システムや国際ルールという壁の前で多くの矛盾を露呈しています。2026年の通常国会における法案審議ではこれらの課題に対して政府がいかに合理的な説明と解決策を提示できるかが問われます。もしこれら課題を解決できぬまま法制化を強行すれば、「女性活躍」の名の下に現場に混乱を招き、当事者の負担をむしろ増大させるだけの結果に終わる危険性があります。真の課題解決は通称という「建て増し工事」ではなく、民法という土台そのものを見直す「選択的夫婦別姓」の議論に立ち返ることにあるのかもしれません。

コメント