2026年の診療報酬改定において、入院時食事療養費の基準額を1食あたり730円へ引き上げる案が検討されています。これは現行の690円から40円のアップとなり、患者負担のさらなる増加が見込まれる重要な改定案です。本記事では、2026年改定で議論されている食事療養費730円案の詳細な内容から、すでに2025年4月に施行された改定内容、物価高騰の実態、医療機関の経営状況まで、入院時の食費負担に関するすべての情報を網羅的に解説します。入院を控えている方やご家族の介護に携わる方、医療関係者の方々にとって、今後の医療費計画を立てる上で必要不可欠な知識をお届けします。

2026年診療報酬改定で検討される食事療養費730円案とは
2026年度(令和8年度)の診療報酬改定に向けた議論が中央社会保険医療協議会(中医協)で進められており、入院時食事療養費の基準額を1食あたり730円へ引き上げる案が浮上しています。この730円という数字は、2025年度改定後の基準額である690円に対して、さらに40円を上乗せするものです。
40円という引き上げ幅は、2024年の30円引き上げや2025年の20円引き上げと比較しても大きな上げ幅となっており、政府および医療関係者が抱く危機感の表れと言えます。現行の690円から730円への変更は、率にして約5.8%の上昇となります。この改定が実現すれば、わずか3年の間に、長年640円で固定されていた基準額が730円へと約14%も上昇することになります。これは、デフレ経済下で硬直化していた医療公定価格が、インフレ経済へと急激に適応しようとする構造転換の現れであると分析できます。
光熱水費60円引き上げ案の同時提案について
2026年改定議論において、食費以上に注目されているのが「入院時生活療養費」における光熱水費の見直しです。食費の40円アップと並行して、光熱水費の基準額を60円引き上げる案が示されています。
入院時生活療養費における光熱水費の基準額は、2006年(平成18年)の制度創設以来、実質的に据え置かれてきた経緯があります。しかし、昨今のウクライナ情勢や円安に端を発するエネルギー価格の高騰は、24時間365日の空調管理と調理設備の稼働を必須とする病院経営を直撃しています。これまでの改定が見送られてきた「聖域」とも言える光熱水費に対し、60円という具体的な引き上げ幅が提示されたことは、医療機関のインフラコスト負担が限界に達していることを示唆しています。
この提案が採用されれば、食事の自己負担増に加え、居住費(光熱水費)の負担増も加わり、特に療養病床に入院する高齢者層の家計負担は複合的に増大することになります。
2025年4月に施行された改定内容の詳細
2026年の議論を深く理解するためには、その前提となる2025年4月1日に施行された改定内容を正確に把握する必要があります。この改定はすでに実施されており、患者にとって避けられない負担増となっています。
基準額と患者負担の連動メカニズム
2025年度改定における最大のポイントは、入院時食事療養費の基準額(医療機関に入る総額)を1食あたり20円引き上げ、その増額分の原資を原則として患者の自己負担増で賄うという点にあります。
具体的には、2025年4月1日より、入院時食事療養費(Ⅰ)の基準額が、流動食以外の一般的な食事において、670円から690円へと引き上げられました。同様に、流動食のみを提供する場合の基準額も、605円から625円へと20円引き上げられました。この基準額の引き上げは、医療機関が食事を提供するコストの上昇分を補填するための措置ですが、健康保険財政の逼迫を背景に、保険給付(公費・保険料)からの支出増ではなく、受益者である患者の窓口負担増によって解決する方法が選択されました。
一般所得者の負担額は510円時代へ
この改定に伴い、一般所得者が窓口で支払う「食事療養標準負担額」は、2025年3月31日までは1食あたり490円でしたが、2025年4月1日からは1食あたり510円へとプラス20円の引き上げとなりました。
これにより、1日3食を病院で摂取する場合の日額負担は、1,470円から1,530円へと増加しました。1ヶ月(30日)の入院を想定した場合、その差額は月額1,800円の負担増となります。年間で計算すれば2万円を超える増額であり、年金生活者や長期療養患者にとっては決して無視できない家計へのインパクトとなっています。かつて「ワンコイン(500円)」以下で収まっていた病院食の負担額は、名実ともに500円玉一枚では支払えない水準へと突入しました。
低所得者層への配慮措置の内容
食材費高騰への対応として負担増が求められる一方で、経済的弱者へのセーフティネットも同時に再設計されています。2025年改定においては、低所得者の負担増を一般所得者の半額に抑える、あるいは据え置くという配慮がなされました。
住民税非課税世帯(区分オ・低所得者Ⅱ)の改定詳細
住民税非課税世帯に属する一般の低所得者については、標準負担額が現行の230円から240円へ、10円の引き上げとなりました。一般所得者の20円増に対し、負担増幅は半分に抑制されています。また、長期入院該当(過去12ヶ月で90日超)の患者に対する軽減措置適用後の負担額についても、180円から190円へ、同様に10円の引き上げとなりました。
特に所得が低い層(低所得者Ⅰ)の据え置き
住民税非課税世帯の中でも特に所得が低い層、具体的には70歳以上で老齢福祉年金受給権者などが該当する区分については、現行の1食あたり110円のまま据え置きとされました。これは、インフレ下においても生存権に関わる最低限の負担水準を維持するという政策的意図が反映された結果です。
指定難病・小児慢性特定疾病患者の特例
指定難病患者や小児慢性特定疾病患者に対する負担額についても、一般所得者とは異なる枠組みが維持されています。一部の事例では1食あたり260円(平成28年以前の旧水準)や別途定められた金額が適用される場合があります。2025年改定において、これらの特例対象者は基本的に一般所得者のような一律20円増の対象外となるケースが多いですが、正確な適用は各自治体の受給者証区分による確認が必要です。
なぜ値上げが続くのか:消費者物価指数から見る科学的根拠
なぜ、これほどまでに頻繁な値上げが必要なのでしょうか。その答えは、総務省が毎月公表する「消費者物価指数(CPI)」の推移を詳細に分析することで明らかになります。医療機関や給食事業者が直面しているのは、一時的な価格変動ではなく、歴史的なレベルのコストプッシュです。
「令和の米騒動」が与えた決定的打撃
2024年から2025年にかけての物価統計において、最も特筆すべきは主食である米類の異常な高騰です。2025年10月公表のデータによれば、うるち米(コシヒカリを除く)の価格指数は、前年同月比でプラス39.6%、一部の指標ではプラス49.2%という驚異的な上昇率を記録しています。
病院給食において、米(白飯、全粥、五分粥など)は最も基礎的かつ大量に消費される食材です。エネルギー確保の主役である米の価格が、わずか1年で約1.5倍に跳ね上がるという事態は、原価計算の前提を根本から覆すものです。家庭であれば「パンや麺に変える」「安い銘柄を探す」といった防衛策が可能ですが、治療食として厳密な栄養管理下にある病院食では代替が難しく、コスト増をそのまま被らざるを得ない構造にあります。
輸入食材と嗜好品の価格高騰
米だけでなく、輸入に依存する食材の高騰も深刻です。コーヒー豆については、2020年を100とした指数で230を超え、前年比プラス64.1%を記録しています。これは2020年時点と比較して仕入れ値が2.3倍以上になったことを意味します。チョコレートについても、カカオ豆の不作により、前年同月比プラス36.9%〜50.9%の上昇を見せています。さらに「物価の優等生」と呼ばれた鶏卵も、鳥インフルエンザの影響と飼料価格高騰により高止まりしており、前年比でプラス15%前後の水準で推移しています。
これらのデータは、2024年の30円引き上げや2025年の20円引き上げ程度では、到底カバーしきれないコスト増が発生していることを客観的に証明しています。消費者物価指数の総合指数(生鮮食品を除く)が前年同月比3.0%程度の上昇であるのに対し、病院給食に関連する特定品目はその10倍以上のスピードで値上がりしており、これが医療機関の経営を圧迫する最大の要因となっています。
給食委託会社の連鎖倒産とサプライチェーン危機
食材費の高騰は、病院経営のみならず、病院の台所を預かる「給食委託会社」の経営を直撃し、サプライチェーンの崩壊危機を招いています。帝国データバンク等の調査機関によるレポートは、この業界が現在進行形で「淘汰」の波に晒されていることを示しています。
過去最多ペースで推移する倒産件数
2024年における医療機関および関連事業者の倒産件数は、過去最多ペースで推移しました。1月から8月までの時点で既に前年の年間件数を上回るペースであり、特に給食委託会社の経営破綻が目立っています。かつて売上高数十億円を誇った中堅の給食会社であっても、食材費の高騰を価格に転嫁できず、資金繰りに行き詰まる事例が報告されています。給食会社が倒産すれば、その翌日から病院や老人ホームでの食事提供がストップするという、ライフラインの寸断に直結するリスクがあります。
価格転嫁の困難さと人件費高騰の二重苦
給食会社が倒産する背景には、構造的な二重苦が存在します。第一に価格転嫁の困難さです。病院や自治体との委託契約は、多くの場合年度単位での固定契約であり、「値上げは数年に一度」といった商慣習や、競争入札による低価格圧力がいまだに根強い状況です。日々の食材価格が変動しても、売上単価である委託費は固定されているため、市場価格の上昇分はすべて給食会社の赤字となります。これを「逆ざや」状態と呼びます。
第二に人件費の高騰です。最低賃金の上昇に加え、早朝・深夜勤務や土日祝日の稼働が求められる給食現場は慢性的な人手不足にあります。人材確保のために時給を上げざるを得ませんが、その原資となる委託費は上がらないため、収益性はさらに悪化します。ある業界関係者は、「もはや安くておいしい給食は当たり前ではなくなっている」と指摘しており、低価格競争の限界が露呈しています。
医療機関の経営実態:構造的赤字の深刻化
給食を外部委託せず直営で行っている病院や、委託費の値上げに応じた病院であっても、経営状況は極めて厳しい状況です。日本病態栄養学会等で発表されたデータは、病院給食部門が抱える構造的赤字の実態を浮き彫りにしています。
国立大学病院における1食あたり約1,000円の損失
2023年に全国の国立大学病院(21施設)を対象に行われた調査結果は衝撃的です。患者1人1日あたりの給食部門の収支は、収入(入院時食事療養費等)が1日あたり約1,624円であるのに対し、支出(食材費、人件費、委託費等)は1日あたり約2,583円でした。つまり、収支差額として1日あたりマイナス959円の赤字が発生しています。
このデータは、大学病院レベルの高度医療機関において、患者1人に食事を提供するたびに、1日あたり約1,000円の損失が発生していることを示しています。800床規模の病院であれば、満床に近い稼働率の場合、年間で数億円規模の赤字が給食部門単独で発生している計算になります。
医業収益による補填の限界
2017年の同様の調査と比較すると、2023年は収入が減少する一方で支出が増大しており、赤字幅が大幅に拡大しています。この巨額の赤字は、本来であれば医師・看護師の給与や最新医療機器の導入に充てられるべき診療報酬(手術料や入院基本料など)から補填されているのが実態です。つまり、日本の医療は「身を削って」患者の食を支えている状態にあり、このままでは医療全体の質の低下を招きかねません。病院給食には家庭での食事にはない衛生管理コストや設備維持費がかかるため、現在の公定価格では構造的に採算が合わない状況にあるとされています。
入院時生活療養費(光熱水費)の仕組みを詳しく解説
今回の2026年改定議論でクローズアップされた光熱水費についても、その仕組みを詳しく解説します。これは一般の入院患者(急性期病棟など)には馴染みが薄いですが、療養病床に入院する高齢者にとっては死活問題となります。
生活療養標準負担額の構造
65歳以上の高齢者が療養病床に入院する場合、食費に加えて「居住費(光熱水費相当)」の負担が求められます。これを「入院時生活療養費」の標準負担額(生活療養標準負担額)と呼びます。現在の負担額は1日あたり370円(指定難病患者などを除く)に設定されています。これには、病室の空調や照明、水道代などが含まれるという考え方です。この370円という金額は、平成30年(2018年)に以前の金額から引き上げられて以降、据え置かれてきました。
2026年60円引き上げ提案の背景
2026年改定に向けて提案されている「60円引き上げ」が実現すれば、1日あたりの居住費負担は370円から430円程度になる可能性があります。この背景には、病院経営におけるエネルギーコスト比率の上昇があります。総務省の消費者物価指数においても、電気代・ガス代は政府補助金の影響で乱高下しているものの、基調としては上昇トレンドにあります。特に病院は、感染症対策のための換気と、厳密な室温管理が必要なため、一般家庭やオフィスビルと比較してもエネルギー消費量が大きいです。2006年の制度設計当時のエネルギー単価と現在の単価には乖離があり、このギャップを埋めるための60円であるとされています。
入院時食事療養費制度の歴史的変遷
「昔は入院の食事代など気にならなかった」という高齢者の記憶は正しいものです。過去30年の制度変遷を振り返ると、入院時食事療養費制度は「給付」から「負担」へと劇的にその性質を変えてきた歴史があります。
260円時代から460円時代への転換
平成28年(2016年)3月以前は、一般所得者の自己負担額は1食あたり260円でした。この時代、食材費の多くは保険給付でカバーされていました。平成28年(2016年)4月からは、1食あたり360円へ引き上げられました。この改定の根拠は「在宅療養患者との公平性」でした。自宅で療養している人は食材費も調理の手間も自己負担しているのだから、入院患者も調理費相当分を負担すべきだという理屈により、プラス100円の改定が行われました。
平成30年(2018年)4月からは、さらに1食あたり460円へと引き上げられました。これにより、食材費相当分に加え、調理コストの大部分が患者負担へと移転されました。
公平性論から物価対策への理由の変化
2018年までの値上げが「制度的公平性」を理由としていたのに対し、2024年の490円への引き上げ(プラス30円)、そして2025年の510円への引き上げ(プラス20円)は、純粋に「物価高騰への緊急対応」という理由で行われている点が大きく異なります。かつては「公平性の担保」という理念的な理由での負担増でしたが、現在は「給食制度の維持そのもの」を目的とした防衛的な負担増へと局面が変わっています。2026年の730円案も、この延長線上にあります。
2026年以降の展望と患者への影響
以上の分析から、2026年の診療報酬改定に向けた動きと、私たちが直面する未来のシナリオを総括します。
730円は通過点に過ぎない可能性
2026年に向けて議論されている基準額730円(プラス40円)および光熱水費プラス60円の提案は、現在のインフレ率と病院給食の赤字幅(1日約1,000円)を考慮すれば、決して十分な額とは言えません。医療現場からは「これでも足りない」という声が上がる一方で、財務省や支払側(保険組合など)からは保険財政の持続可能性の観点から慎重論も根強い状況です。しかし、給食事業者の倒産リスクという物理的な供給制約がある以上、価格転嫁の流れは不可避です。2026年改定において基準額が730円に決定した場合、患者の自己負担額(標準負担額)も現在の510円からさらに引き上げられ、530円〜550円程度になるシナリオも十分に想定されます。
求められる制度の柔軟性
現在の「2年に1回の改定」という硬直的なシステムでは、日進月歩で変動する生鮮食品やエネルギー価格に対応できないことが、今回の危機の根本原因の一つです。今後は、物価スライド制の導入や、年度途中での緊急改定スキームの確立など、より柔軟な価格決定メカニズムが求められることになるでしょう。
入院を控える方への提言
一般市民にとって重要なことは、入院時の食費負担が「構造的に上昇し続けるフェーズに入った」と認識することです。2025年4月から1食510円になったことは確定事項であり、さらに2026年には光熱水費を含めた追加の負担増が議論されています。これは、民間医療保険の特約選びや、老後の医療費試算において、これまでよりも多めの予算を見積もる必要があることを意味しています。
「病院食は安くて当たり前」という時代は終わりを告げました。これからは、適正な対価を支払うことで、安全で栄養管理された「治療としての食」を守るという、新たな社会的合意形成のプロセスが進んでいくことになるでしょう。


コメント