近年、市街地でのクマの出没が全国各地で相次いでおり、住民の不安が高まっています。住宅街にクマが現れた際、最初に駆けつけるのは警察官ですが、多くの場合、警察官は銃器を使用してクマを駆除することができません。この状況に対して、「なぜ警察はすぐに撃たないのか」という住民からの批判や疑問の声が絶えません。一見すると、警察官が目の前の脅威に対して即座に発砲すれば問題は解決するように思えますが、実際には法的な制約、技術的な限界、心理的な負担、そして社会的な圧力という複数の要因が複雑に絡み合っています。警察官の手を縛るこれらの見えない力を理解することは、単に警察の対応を批判するのではなく、日本社会全体が直面している野生動物管理の構造的な課題を浮き彫りにすることにつながります。本記事では、警察がクマに発砲できない理由を多角的に分析し、住民の批判の背景にある深刻な問題点を明らかにしていきます。

警察官を縛る法的な制約
警察官がクマに対して銃器を使用できない最大の理由は、法的な制約にあります。一般的に、警察官は犯罪者に対しては明確な武器使用の権限を持っていますが、野生動物に対する対応については法律上の位置づけが曖昧です。
まず、「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」、いわゆる鳥獣保護管理法が大きな壁となっています。この法律は、原則として住居集合地域や夜間における銃器の使用を禁止しています。つまり、市街地でクマが出没したとしても、銃器を発砲すること自体が法律違反となる可能性があるのです。この法律の主な目的は野生動物の保護と狩猟の適正化であり、緊急時の市民の安全確保を第一に考えた法律ではありません。そのため、どれほど危険な状況であっても、警察官はこの法的な禁止規定に直面することになります。
次に、警察官のあらゆる職務執行の根拠となる警察官職務執行法、通称警職法にも問題があります。警職法第7条は、警察官が武器を使用できる状況を定めていますが、その対象は主に「犯人」に特化しています。犯人の逮捕や逃走の防止、自己や他人の防護のために武器を使用できると定められていますが、重要な但し書きとして「人に危害を与えてはならない」という条件があります。この条件の例外は、正当防衛や緊急避難に該当する場合、あるいは凶悪犯罪者への対処など、極めて限定的な状況に限られています。
クマは法律上の犯人ではなく、逮捕することもできません。したがって、警職法第7条が定める武器使用の主要な正当化事由は、クマには直接適用できないのです。警察官が頼ることができるのは、自己防衛や緊急避難という狭い例外規定だけです。しかし、これらの要件を事後的に証明することは容易ではなく、特に流れ弾が人に危害を加えた場合、警察官個人は重大な法的責任を問われる可能性があります。
興味深いことに、警職法第4条には、警察官がその場にいる者に対して危害防止のための措置を命じることができるという規定があります。警察庁の公式見解でも、緊急性が高く具体的な危険が差し迫っている場合には、この第4条を根拠に警察官が猟友会のハンターにクマの駆除を命じることは可能だとされています。つまり、法の構造そのものが、警察官自身が致死的な武力を行使するのではなく、適切な技能を持つ民間人に許可を与えることを前提としているのです。これは、警察官自身の能力と法的権限における構造的なギャップを示しています。
近年、こうした膠着状態を打開するために緊急銃猟制度が導入されました。鳥獣保護管理法の改正により、特定の条件下で市町村長の判断によって住居集合地域での緊急的な銃猟が可能となりました。札幌市で初めてこの制度が適用された事例は記憶に新しいところです。しかし、この制度改正は、現場でクマと対峙する警察官自身に権限を与えるものではありません。意思決定の権限が警察から地方自治体へと移譲されただけで、現場で標的を視認している警察官が遠隔地にいる別の行政機関の判断を待たなければならないという根本的な問題は解決されていないのです。
このように、警察官がクマに発砲できない背景には、人間に対する対応を前提とした法制度と、野生動物という想定外の脅威との間に生じた構造的な不一致があります。鳥獣保護管理法が撃ってはならないという原則を定め、警職法がその原則を覆すための非常に狭い例外しか警察官に与えていない結果、明白な危険が存在するにもかかわらず、どの主体も即座に行動するための明確な法的権限を持たないという責任の空白地帯が生まれているのです。
市街地での発砲が抱える技術的リスク
法的な制約をクリアしたとしても、警察官が市街地でクマに向けて発砲することには、極めて深刻な技術的なリスクが伴います。
最も危険なのは跳弾のリスクです。市街地はアスファルト、コンクリート、建物の壁といった硬い表面で構成されています。このような環境で銃を発砲すると、弾丸が予測不可能な角度で跳ね返る可能性が非常に高いのです。水面でさえ、特定の角度で着弾すると跳弾の危険性が高まると言われています。森林で発砲するハンターの背後には、弾丸を吸収する柔らかい土がありますが、市街地の警察官はいわば鏡張りの射撃場に立っているようなものです。専門家が指摘するように、札幌の中心部のような場所での発砲は極めて難しく、どんな射角をとっても跳弾のリスクを避けることができません。たった一発の銃弾が跳弾によって数ブロック先まで飛び、見えない場所にいる無数の市民を危険に晒す可能性があるのです。
次に、警察官が携帯する拳銃の威力不足という問題があります。警察の拳銃は、猟友会のハンターが使用するライフル銃に比べて威力が格段に劣ります。専門家によれば、クマを確実に仕留めるには大口径のライフルや特殊なスラグ弾を心臓や肺といった急所に正確に撃ち込む必要があります。クマの分厚い頭蓋骨は、拳銃弾程度では弾いてしまうことさえあるのです。
さらに深刻なのは、中途半端な威力で致命傷を与えられなかった場合に生じる半矢のリスクです。半矢とは、獲物を仕留め損ねて傷つけただけの状態を指す狩猟用語ですが、半矢になったクマは単に負傷した動物ではありません。痛みと怒りで逆上し、攻撃性が極度に高まった、より危険な存在へと変貌します。これは市民にとっても警察官自身にとっても最悪のシナリオと言えるでしょう。
この技術的なミスマッチは、皮肉にも何もしないことへのインセンティブを生み出します。警察官の第一の責務は市民の安全確保ですが、拳銃を発砲するという行為は、跳弾による市民への危険と、半矢によるより凶暴化したクマの創出という二つの新たな重大なリスクを現場にもたらします。リスク管理の観点から見れば、拳銃しか持たない警察官にとって最も安全な選択は、しばしば撃たないこととなるのです。この不作為は臆病さから生まれるのではなく、与えられた装備の深刻な限界に基づいた合理的なリスク計算の結果なのです。
一般市民の間では、麻酔銃が人道的で簡単な非致死的解決策であるという認識が根強くあります。しかし、これは危険な神話です。技術的に、麻酔銃は射程が20メートルから30メートルと極端に短く、命中精度も低いのが現実です。さらに、麻酔薬が効果を発揮するまでには5分から10分程度の時間を要し、その間クマは興奮してより危険になる可能性があります。投与量も現場でクマの体重を推測して決めなければならず、少なすぎれば効かず、多すぎれば死に至らしめてしまいます。
法的に見ても、住居集合地域で麻酔銃を使用するには鳥獣保護管理法に基づく特別な許可が必要であり、使用される麻酔薬であるケタミンなどは麻薬及び向精神薬取締法で厳しく規制されています。これを扱うには麻薬研究者といった特殊な免許が必要で、その管理は極めて厳格です。つまり、麻酔銃はパトロール中の警察官が気軽に使える道具ではなく、計画された捕獲作戦において訓練された専門家が管理された条件下で使用する高度に専門化された器具なのです。市街地での突発的で緊迫した遭遇において、麻酔銃は法的に複雑で技術的に信頼性が低く、何もしないことよりもかえって危険な状況を招きかねない選択肢なのです。
この警察の技術的な不備こそが、現在の複雑な多機関連携による対応システムの根幹をなしています。第一応答者である警察は、最終的な脅威であるクマそのものを排除するための技術的手段を欠いています。この技術的ギャップが、適切な道具であるライフル銃を持つ猟友会の関与を必要不可欠なものにしています。そして、猟友会は民間人であるため、その行動を法的に正当化するために、許可権限を持つ行政機関の関与が必要不可欠となります。しばしば非効率だと批判される時間のかかる煩雑な対応プロトコルは、第一応答者である警察が任務を完遂するための技術的手段を欠いているという決定的な事実から必然的に導き出される構造なのです。
警察官が抱える心理的な負担
法的な制約や技術的なリスクといった外的要因だけでなく、警察官個人が抱える心理的な負担も、発砲をためらわせる大きな要因となっています。
現場の警察官は、不完全な情報、極度の時間的プレッシャー、そして自らの行動が衆人環視の下にあるという認識の中で、生と死を分ける判断を迫られます。これは認知過負荷と意思決定麻痺を引き起こす典型的な状況です。実際に、経験の浅い警察官が適切な判断や決断ができずに発砲の機会を逃し、現場の混乱を招いた事例が報告されています。これは個人の資質の問題だけでなく、極度のストレス下における人間の心理的な限界を示しています。
警察官は撃っても地獄、撃たなくても地獄という心理的な罠にはまっています。行動、つまり撃つ選択をすれば、跳弾や半矢のリスク、そして事後の厳しい追及を覚悟しなければなりません。一方、不作為、つまり撃たない選択をすれば、クマが誰かを襲うリスクを放置したとして職務怠慢の非難を浴びる可能性があります。これは単純な善悪の選択ではなく、二つの起こりうる大惨事の間の選択なのです。この状況において、ためらいは十分に理解できる心理的反応と言えるでしょう。
警察官が行動を起こす前に頭をよぎるのは、事後への恐怖です。たとえ警察官の命令に従ったハンターの行為が法的に保護される可能性があるとしても、警察官自身による銃器の使用、特にそれが人の負傷や物損につながった場合、自動的に厳格かつ長期にわたる内部調査の対象となります。現場の警察官は、一瞬の判断が上司、検察官、弁護士によって何週間、何か月にもわたって分析されることを痛いほど知っています。跳弾によって負傷した通行人からの民事訴訟のリスクも非常に現実的です。新たな緊急銃猟制度に自治体による補償規定が盛り込まれたこと自体が、この金銭的リスクの存在を暗に認めています。
これは、リスク回避への強力なキャリアに基づいたインセンティブを生み出します。悪い発砲の個人的かつ職業的コストは天文学的に高い一方で、良い発砲に対する職業的報酬は本来の職務を全うしたという以上のものはほとんどありません。最も抵抗が少なく個人的なリスクが低い道は、しばしば状況を封じ込め、猟友会の到着を待つことです。それによって最終的な行動責任を他者へと移譲することができるからです。
警察の標準的な訓練も、この種の脅威に対して警察官を十分に準備させていません。警察の訓練やプロトコルは、圧倒的に人間を対象とすることに重点を置いています。自治体や猟友会と連携したクマの出没を想定した実践的な対処訓練の必要性が認識されているものの、それが標準化されているとは言い難い状況です。多くの警察官は、そのキャリアを通じて一度も大型の危険動物と対峙することなく退職します。彼らの訓練は、人間に対して段階的に武力を行使し、コミュニケーションを通じて事態を沈静化させることを教えますが、これらの技術は体重200キログラムのクマには一切通用しません。
この経験の断絶は、警察官がクマと対峙した際、自らの訓練と専門知識の範囲外で活動していることを意味します。この不確実性は当然ながらためらいを生み、彼らが日常的に習熟している非致死的な封じ込め戦術である包囲網の形成や住民の避難誘導などを優先させることにつながります。結局のところ、警察官のためらいは個人の失敗の兆候ではなく、制度的な失敗の症状なのです。制度は任務に対して技術的に不適切な道具である拳銃を警察官に与え、この文脈で適用するには曖昧で法的に危険な法的枠組みを提供し、この低頻度だが致命的な結果を招きうる事態に対する具体的で定期的かつ現実的な訓練を提供することに失敗しています。そして制度の事後検証プロセスは懲罰的でリスク回避的であることが知られており、過度の慎重さを旨とする組織文化を醸成しています。現場の警察官の心理状態である恐怖、ためらい、意思決定麻痺は、彼個人の弱さではなく、彼らを適切に武装させ権限を与え支援することに失敗したシステムによって不可能な状況に置かれた人間としての完全に合理的な反応なのです。
社会的な価値観の対立
警察官が直面する問題の背景には、より広範な社会的な価値観の対立が存在します。街頭に立つ警察官は、実は大きな文化的対立の断層線上に立たされているのです。
クマの駆除が行われるたびに、行政や猟友会には殺す必要はなかったという趣旨の批判や苦情が殺到します。この感情は、クマを擬人化して捉え、生息地を破壊してきた人間側の罪悪感に根差していることが多いのです。特に子グマが絡むと、この圧力は一層激しくなります。一方で、被害地域の住民にとっては、何よりも人間の生命と安全が優先されるべきです。地方自治体は、この激しい価値観の対立の板挟みとなっています。
これは単なる意見の相違ではなく、実際の脅威からの地理的かつ心理的距離と相関することが多い、根本的な世界観の衝突です。この社会的圧力は萎縮効果を生み、警察上層部を含む行政当局が、避けられない広報的な嵐を恐れて断固たる致死的措置を取ることを躊躇させます。クマを撃つという判断は、もはや単なる戦術的な判断ではなく、政治的な判断と化しているのです。
このクマ問題をめぐる国民的議論は、実はクマそのものについての議論ではありません。それは、都市部と地方の日本との間にある深刻な断絶の現れです。自然との関係が抽象的で理想化されがちな都市住民と、自然との関係が直接的で現実的、時には敵対的ですらある地方住民との間の溝が存在します。メディアはしばしば、農作物の被害や住民の恐怖といったありふれた現実よりも、感情的でかわいそうな物語を増幅させます。この国が直面している対応システムの麻痺は、人間社会と野生との境界をどう管理すべきかについて、社会的な合意形成ができていないことの直接的な反映なのです。
複雑な指揮系統と責任の所在
クマへの対応は、警察による群衆整理、自治体による許可、そして猟友会による致死的措置という、複数の主体による複雑な連携を必要とします。しかし、現場で最初から最後まで一元的に指揮を執る主体が存在しないという問題があります。
日本では誰が撃つ責任を負うのかという問題が危険なほど曖昧です。これは、警察や専門の野生動物管理官が明確な権限を持つ他国とは対照的な状況です。クマを殺すという論争を呼ぶ最終的な行為に対する責任は、各機関の間で押し付けあうホットポテトと化しています。警察は撃けない、あるいは撃ちたがらず、自治体は審議を要し、そして最終的な実行は民間のボランティアに委ねられます。この責任の拡散こそが、各主体が正式にリスクを引き受けて決断を下すのを互いに待つという、不作為と遅延を生み出す構造的な原因なのです。
猟友会への過度な依存という脆弱性
このシステムの最後の砦を担うのが、高齢化し減少し続けている猟友会のメンバーです。危険な動物の駆除という実際の作業は、地域の猟友会に依存していますが、これらの団体は深刻な後継者不足とメンバーの高齢化に直面しています。
適切な装備であるライフル銃、技術である追跡と射撃、そして経験を兼ね備え、クマに効果的かつ比較的安全に対処できるのは、事実上彼らだけです。日本の大型動物による脅威に対する公的安全戦略全体が、高齢化し縮小しボランティアでしばしば世間から非難される民間人の肩に懸かっています。彼らは技術的リスク、法的リスク、そして社会的リスクの全てを、ほとんど無償で引き受けているのです。これは持続可能なシステムとは到底言えません。
警察は法的かつ技術的に主要な実行者たり得ないため、猟友会のハンターは単に有用な存在なのではなく、構造的に不可欠な存在となっています。彼らがいなければ、このシステムは最終的かつ最も重要な段階で完全に機能不全に陥ります。この不可欠な集団が急速に縮小し高齢化している一方で、人間とクマの遭遇は増加の一途をたどっています。日本の公的安全戦略は、急速に劣化しつつある資産に依存しているのです。これは古典的な単一障害点であり、現在のシステムは非効率なだけでなく、完全な崩壊へと向かう軌道上にあると言えるでしょう。経験豊富なハンターの最後の世代が引退し、もし専門的な部隊が彼らに取って代わらなければ、日本は市街地で危険なクマに対処できる能力、装備、そして権限を持つ者が文字通り誰もいないという未来に直面することになります。
住民の批判を超えて考えるべきこと
住民から警察が撃たないことを批判されるのは、目の前の危険に対する即座の対応を期待する心理として理解できます。しかし、警察官がためらう理由は、臆病さや職務怠慢ではなく、法律、技術、心理、社会という複数の層で構造的に発砲を困難にする要因が存在するためです。
警察官は発砲することで跳弾による二次被害のリスクを負い、威力不足の拳銃でクマを半矢にして事態を悪化させる可能性に直面し、事後の法的責任を個人で背負わなければならず、さらに動物愛護の観点から世論の批判にもさらされます。一方、撃たなければ住民の安全を守れなかったと批判されます。このジレンマの中で、警察官は最善の判断を下そうとしているのです。
住民の批判の矛先は、現場の警察官個人ではなく、このような不可能な状況を生み出しているシステム全体に向けられるべきです。警察官に適切な装備と明確な法的権限を与えず、訓練も不十分なまま野生動物との対峙を強いる現在の制度こそが問題の根源なのです。
今後求められる抜本的な改革
この問題を解決するためには、単なる法改正以上のものが必要です。まず、警察の権限と装備の根本的な見直しが求められます。現在の拳銃では大型のクマに対して威力不足であることは明らかであり、専用の装備や訓練が必要です。あるいは、警察とは別に、野生動物の脅威に専門的に対処する専門部隊の創設を検討すべきでしょう。
次に、猟友会への過度な依存を軽減する必要があります。現在のシステムは、ボランティアである猟友会のメンバーに全てのリスクを押し付ける構造になっており、その持続可能性は危機的状況にあります。自治体が責任を持って専門の駆除チームを組織し、適切な報酬と法的保護を提供する仕組みが必要です。
さらに、都市住民と地方住民の間にある価値観の断絶を埋めるための、より成熟した国民的議論が不可欠です。クマを擬人化して保護するべきだという感情論と、実際に生命の危険にさらされている地域住民の切実な訴えとの間で、社会としてどのようにバランスを取るべきかを真剣に議論する必要があります。近代日本における人間と野生動物の共存という困難な現実に、感情ではなく事実に基づいて誠実に向き合うことが求められています。
緊急銃猟制度の導入は一歩前進ですが、それだけでは不十分です。現場で判断し行動する権限を持つ主体を明確にし、その主体に適切な装備、訓練、法的保護を提供する包括的な改革が必要なのです。
まとめ
警察がクマに発砲しない理由、そして住民から批判される背景には、単純な職務怠慢ではなく、法的、技術的、心理的、社会的な複雑な要因が絡み合っています。鳥獣保護管理法と警職法という二つの法律が生み出す責任の空白地帯、市街地での跳弾リスクと拳銃の威力不足という技術的限界、撃っても撃たなくても批判される心理的ジレンマ、そして都市と地方の価値観の対立という社会的分断が、警察官の手を縛っているのです。
街角のクマは、それに直面する警察官だけでなく、彼をそこに送り出した社会全体に対する試練です。この問題を解決するためには、現場の警察官を批判するのではなく、警察に適切な権限と装備を与え、猟友会への過度な依存から脱却し、専門部隊の創設を含めた抜本的な制度改革を進める必要があります。そして何よりも、人間と野生動物の境界をどう管理すべきかについて、都市住民も地方住民も含めた社会全体で、感情論ではなく現実に基づいた成熟した議論を行うことが不可欠なのです。
警察官が発砲をためらう姿は、個人の失敗ではなく、システムの失敗を映し出す鏡です。この鏡に映る姿から目を背けることなく、日本社会全体でこの構造的な課題に取り組んでいくことが、今まさに求められています。


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