浅草の伝法院通りにおける32店舗の不法占拠は、1977年に当時の台東区長が口頭で出店を許可したことが原因で発生しました。この問題の経緯は、戦後の露天商から始まり、行政の黙認を経て40年以上にわたり継続し、2014年に台東区が立ち退きを要請したことで表面化しました。2026年夏には全店舗が撤去される予定であり、浅草の風景が大きく変わることになります。
伝法院通りの不法占拠問題は、「昭和の行政手法」と「令和の法的コンプライアンス」が衝突した象徴的な事例です。年間数千万人が訪れる世界的観光地・浅草において、なぜこのような事態が発生し、長期間にわたって放置されてきたのでしょうか。本記事では、この問題の発生原因から詳しい経緯、法的争点、そして2026年の撤去に向けた動きまでを詳しく解説します。浅草という街の歴史と、都市計画における行政と住民の関係について理解を深めることができる内容となっています。

伝法院通り32店舗の不法占拠とは何か
伝法院通り32店舗の不法占拠とは、東京都台東区浅草の区道(公道)上に建設された32の店舗が、正規の道路占用許可を得ないまま40年以上にわたり営業を続けてきた問題です。これらの店舗は浅草寺の本坊である伝法院の南側を走る約300メートルの通りに位置し、和装小物や扇子、土産物、駄菓子などを扱っています。瓦屋根や木造風の意匠で統一された外観は「古くからある浅草の伝統的な景観」として多くの観光客に親しまれてきましたが、その法的基盤は極めて脆弱なものでした。
伝法院通りは、浅草のメインストリートである仲見世通りを横切る形で位置しており、東は馬道通り、西は浅草六区の歓楽街へと接続しています。この立地は回遊性が非常に高く、浅草寺参拝客が自然と足を運ぶ動線上にあります。問題となっている32店舗は、特に浅草公会堂周辺の区道上に建物の一部または全体をはみ出す形で建設されています。道路法に基づく正規の道路占用許可は、申請書の提出、審査、許可証の交付、そして占用料の納付という厳格なプロセスを経る必要がありますが、これらの店舗はそのいずれの手続きも経ていなかったのです。
不法占拠が発生した原因と1977年の転換点
戦後の混乱と露天商の発生
この問題の根源を理解するには、戦後浅草の都市形成史にまで遡る必要があります。第二次世界大戦後、焼け野原となった浅草周辺には、生活の糧を求める人々によって自然発生的に露店や屋台が出現しました。当時の日本において、公有地や道路上での営業は、厳密な権利関係よりも「生存」や「復興」という文脈の中で黙認される傾向にありました。
伝法院通り周辺にも戦後しばらくの間、露天商が並んでいたとされています。これらは法的な「店舗」というよりは、移動可能な簡易的な設営物による営業形態でした。この「曖昧な占有」の状態が、後の大規模な常設店舗群へと変質する素地となったのです。
内山栄一区長の構想と「口頭許可」
不法占拠問題における最大のキーパーソンは、1970年代に台東区長を務めた内山栄一氏です。「アイデア区長」との異名を取った内山元区長は、停滞しつつあった浅草の活性化に並々ならぬ情熱を注いでいました。
1977年(昭和52年)に浅草公会堂が建設されオープンを迎えた際、内山元区長は仲見世通りに集中していた観光客の流れを公会堂、さらにはその先の浅草六区へと誘導したいと考えました。そのためには、公会堂前の通り(現在の伝法院通り)を整備し、魅力的な商業空間とする必要があったのです。
ここで、現代の行政手続きでは考えられない事態が発生しました。商店街側の主張によれば、内山元区長は当時営業していた露天商たちに対し、「ここもきれいにした方がいい」「仲見世のような賑わいを作りたい」との意図から、常設店舗の設置を強く推奨しました。さらに決定的なのは、区長が「お前ら、地代なしで営業してもいいぞ」「ここで商売をしていい」と口頭で伝達したという証言です。
商店主たちはこの言葉を「行政のお墨付き」として受け取りました。「観音様が境内近くの土地に、ひとりに1軒ずつ店を出していいと許可をくれた」という店主の言葉は、当時の彼らが抱いた素朴な信頼感と、法的認識の希薄さを物語っています。こうして、公道上に恒久的な建物が建設されるという、法治国家の原則から逸脱した状態が固定化されました。
40年間の行政の黙認と既得権益化の経緯
行政による事実上の追認
1977年の店舗建設から2014年に至るまでの約37年間、台東区はこの違法状態に対して特段の是正措置を講じませんでした。それどころか、区は違法状態を知りながら黙認し、あるいは積極的に関与してきた事実があります。
まず、インフラの提供として、各店舗に対して区が設置した街路灯からの電源引き込みを容認していました。次に、住居表示の付与として、公道上の建物であるにもかかわらず住居表示プレートを提供していました。さらに、観光資源としての活用として、区の観光パンフレットや広報において伝法院通りを浅草の魅力的なスポットとして紹介し続けてきたのです。
これらの事実は、行政が違法状態を明らかに認識しながら長期間放置してきたことを示しています。この「長期間の平穏かつ公然とした占有」と「行政の協力姿勢」が、商店主たちの間に「自分たちの営業は正当な権利に基づいている」という強固な確信を醸成することとなりました。
伝法院通りブランドの確立
この約40年間で、伝法院通りは浅草にとって欠かせない風景へと成長しました。「おいもやさん興伸」の大学芋、「ら・麺亭」のラーメン、「地球堂書店」の古書、「浅草札屋」の木札、「江戸駄菓子まんねん堂」の菓子など、各店舗はそれぞれの個性を発揮し、浅草の商業文化の一翼を担うようになりました。
特に、江戸情緒を感じさせる外観整備は、浅草寺周辺の歴史的景観保存の文脈とも合致し、多くのメディアで取り上げられる人気スポットとしての地位を確立しました。皮肉なことに、この成功体験が後の立ち退き要請に対する心理的な反発をより強固なものにしたといえます。自分たちが街を育てたという自負が、法的な瑕疵を覆い隠してしまったのです。
2014年のパラダイムシフトと立ち退き要請の背景
東京オリンピックと都市空間の正常化
40年近い沈黙を破り、台東区が態度を一変させたのは2014年(平成26年)のことです。この年は、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けた準備が本格化し始めた時期と重なります。
台東区は立ち退き要請の理由の一つとして「東京オリンピック開催が決まり、多くの外国人が来日する予想があるなかで、道路空間を広げること」を挙げました。国際的なイベントを迎えるにあたり、防災、防犯、バリアフリー、そして景観の観点から、都市空間の「正常化」が急務となったのです。権利関係が不明確で、道路を物理的に狭くしている伝法院通りの店舗群は、行政にとって看過できない「リスク」として再定義されました。
コンプライアンス社会への移行
もう一つの背景には、社会全体のコンプライアンス意識の高まりがあります。かつては許容された曖昧な関係や、特定の集団に対する便宜供与は、現代の地方自治法制下では「住民訴訟」の対象となりうる重大な違法行為とみなされます。
区道は区民全員の共有財産であり、特定の商店が無償で独占的に使用することは、公平性の観点から許されません。仮に区の担当者が現状維持を図ろうとしても、監査や議会からの追及を逃れることは不可能になっていました。内山元区長の時代の「政治的リーダーシップ」は、現代の「法的アカウンタビリティ」の前に無効化されたのです。
占用許可をめぐる書類の問題
区と商店街の協議が決裂した決定的な要因の一つとして、占用許可に関する書類の信憑性をめぐる疑義が存在します。交渉の過程で、過去の占用許可証の存在やその真偽が争点となりました。
区側は「許可の事実は公文書として確認できない」との立場を貫きました。一方、商店側には「口頭許可」の記憶はあっても、それを証明する有効な公文書が存在しませんでした。この「エビデンスの不在」は、行政側に対し、話し合いによる解決の道を閉ざし、司法判断に委ねざるを得ない状況を作り出しました。法的根拠のない占用を追認することは、行政自身が違法行為に加担することになるからです。
法的争点の詳細:公物管理と取得時効の壁
公有地の時効取得は成立するのか
本件が法廷闘争にもつれ込んだ際、最大の争点となったのは「公有地(道路)の時効取得」が可能か否かという点でした。民法162条は、他人の物であっても、所有の意思を持って平穏かつ公然と一定期間占有すれば、その所有権を取得できると定めています。商店主たちは40年以上営業しているため、通常の土地であれば時効取得が成立する期間を満たしています。
しかし、対象が「道路」のような「公物(公共用財産)」である場合、話は根本的に異なります。判例および法解釈の通説では、公物は行政主体が「公用廃止行為」を行わない限り、私人の所有権の対象にはなり得ないとされています。
黙示の公用廃止の法理と4要件
ただし、最高裁判所は例外的に、明示的な廃止行為がなくとも、実態として公用が廃止されたとみなせる場合には、時効取得を認める判断を下しています。商店側が勝訴するには、この例外規定に該当することを証明する必要がありました。
最高裁が示した「黙示の公用廃止」が認められるための要件は4つあります。第一に、公共用財産が長年の間、事実上公の目的に供されることなく放置されたこと。第二に、公共用財産としての形態や機能を全く喪失していること。第三に、その上に他人の平穏かつ公然の占有が継続したが、実際上公の目的が害されることもないこと。第四に、もはやその物を公共用財産として維持すべき理由がなくなったこと。
伝法院通りでは時効取得が認められない理由
この法理を伝法院通りに当てはめると、商店側の主張がいかに困難であるかが明らかになります。店舗部分は道路にはみ出しているものの、その前面の空間は依然として「伝法院通り」という道路として機能しており、多数の歩行者が通行しています。道路としての形態や機能を「全く喪失」したとは到底いえない状況でした。
また、区は「道路を拡幅し、通行の安全を図る」という公の目的を主張しており、「維持すべき理由がなくなった」とは認められません。法律家による解説でも、本件において時効取得が認められる可能性は極めて低いと分析されていました。裁判所は「公有地の不法占拠」という事実を認定せざるを得ず、商店側の「信頼関係」や「歴史的経緯」といった情状は、法的な所有権の移転を認める根拠としては不十分だったのです。
提訴から和解への道程
2021年の提訴と商店街の反発
2021年12月、台東区議会は全会一致に近い形で提訴関連議案を可決し、区は東京地方裁判所に提訴しました。請求内容は、店舗の撤去、土地の明け渡し、および過去に遡っての占用料相当額の支払いでした。
これに対し、商店街側は猛反発しました。商店街の会長はメディアの取材に対し、「今さらなぜ今なのか」「浅草をつぶすようなものだ」と悲痛な声を上げ、徹底抗戦の構えを見せました。商店街は署名活動を展開し、1万1千筆を超える署名を集めて区に提出するなど、世論に訴える戦術をとりました。彼らにとって、これは単なる金銭の問題ではなく、浅草という街における自らのアイデンティティを賭けた闘争でした。
法廷闘争から和解協議へ
しかし、法廷闘争が進むにつれ、前述した法的ハードルの高さが現実味を帯びてきました。敗訴すれば、強制執行による立ち退きに加え、莫大な過去の損害賠償金を一括で請求されるリスクがあります。
2024年から2025年にかけて、事態は和解協議へと大きく舵を切りました。裁判所からの和解勧告もあり、双方が妥協点を探った結果、以下の方向性で合意形成が進んでいます。商店側は店舗を解体し、更地にして区に返還すること。即時退去ではなく、2026年(令和8年)夏(7月頃)までの猶予期間を設けること。過去の占有に対する賠償金については、現実的な支払い能力等を考慮した調整が行われていると推測されますが、詳細は公表されていません。
この和解は、商店側にとっては敗北に近い苦渋の決断でした。ある店主は「裁判が終わったら話せるが、今はもう話したくない。後悔している」と語り、深い無力感を滲ませています。
2026年に失われる浅草の風景と各店舗
浅草の魅力を形成してきた店舗群
2026年に姿を消すことになる店舗群は、浅草の散策体験において重要な役割を果たしてきました。「おいもやさん興伸 浅草伝法院通店」は、明治9年創業の甘藷問屋が開いた大学芋の名店です。店頭で大学芋やスイートポテトを買い求める客の列は、伝法院通りの日常風景でした。
「ら・麺亭」は、昔ながらの醤油ラーメンやワンタン麺を安価で提供し、地元住民や観光客の小腹を満たしてきた人気店です。その素朴な味わいと佇まいは、昭和の浅草を色濃く残していました。「浅草札屋」は、祭り用品や木札(喧嘩札)を扱う専門店であり、三社祭をはじめとする浅草の祭り文化を支える存在です。オーダーメイドの木札は外国人観光客にも非常に人気が高い商品として知られていました。
「江戸駄菓子まんねん堂」は、金花糖やニッキ飴など懐かしい江戸駄菓子を扱う店舗です。店構えそのものが博物館のような趣を持ち、子供から高齢者まで幅広い層に愛されていました。「地球堂書店」は、美術書や古書を扱い、浅草の知的・文化的側面を象徴する店舗の一つでした。
これらの店舗は、単なる商業施設ではなく、浅草という街の「肌触り」を構成する細胞のような存在でした。それらが一斉に消失することは、街の表情を一変させるインパクトを持っています。
2025年現在の伝法院通りの状況
2025年現在、立ち退き期限まで残り約半年となり、現地には独特の緊張感と諦念が漂っています。店舗は依然として営業を続けており、何も知らない観光客は以前と変わらず買い物を楽しんでいますが、店主たちの表情は一様に重いものがあります。
伝法院通りから続く浅草六区通りや、近隣の浅草演芸ホール周辺は依然として活気に満ちていますが、伝法院通りの一角だけが「終わりの時」を待つ執行猶予の状態にあります。観光客向けの華やかな喧騒の裏で、着々と撤去へのカウントダウンが進んでいるのです。
伝法院通り問題が残した教訓と2026年以降の浅草
「正しさ」が奪うもの
伝法院通りの不法占拠問題は、行政の正義と歴史の正当性が正面衝突した事例です。行政側の論理は「法の下の平等」と「安全」にあります。地震や火災などの災害時、狭い道路に建物が密集していることは致命的なリスクとなります。また、法を遵守して高い地代を払っている他の商店との公平性を考えれば、不法占拠の解消は正当かつ必要な措置といえます。
しかし、その「正しさ」が奪うものもまた大きいのが現実です。内山元区長が夢見た「賑わい」は、法的には不備だらけでしたが、間違いなく浅草の魅力を高めることに成功しました。そのレガシーを「違法だから」と一刀両断に切り捨てることは、都市から「人間的な温かみ」や「歴史の年輪」を削ぎ落とす側面があります。
口約束の代償と不作為の罪
本件が残した教訓は重いものがあります。第一に「口約束の代償」です。昭和の時代に通用した「阿吽の呼吸」や「政治的貸し借り」は、数十年後に当事者たちを追い詰める凶器となりました。行政指導の文書化と透明性の確保は、行政・市民双方を守るために不可欠であることが改めて示されました。
第二に「不作為の罪」です。問題を先送りにし、見て見ぬふりをしてきた歴代の行政担当者の責任は問われないまま、最終的なツケを現在の商店主たちが払わされる構図となりました。早期に正規の手続きへの移行や、代替地の確保などを模索していれば、これほどの悲劇は避けられたかもしれません。
2026年夏以降の風景
2026年夏、伝法院通りの32店舗はすべて解体され、更地となる見込みです。その後、道路は拡幅され、歩行者が歩きやすく災害にも強い広々とした通りが整備されるでしょう。そこは法的にもクリーンで、誰からも後ろ指を指されない安全な空間です。
しかし、そこにかつてあった「猥雑だが温かい昭和の浅草」の残り香を求めることは、もはやできません。都市が安全で清潔になる過程で、何が失われているのかを、この空虚な空間から学び取る必要があるのかもしれません。伝法院通りの不法占拠問題は、日本の都市における行政と住民の関係、そして「正しさ」と「情」のせめぎ合いを象徴する出来事として、長く記憶されることになるでしょう。

コメント